製作年度:1951

製作国:日本

監督:木下恵介

出演:高峰秀子、小林トシ子、坂本武、磯野秋雄、笠智衆

 

 日本初の総天然色映画として製作された木下恵介監督作。主演は高峰秀子と小林トシ子。東京でストリッパーをしているハイカラな娘が友達を連れて里帰りしたことから静かな村が大騒ぎとなるさまをコミカルに描く。(allcinema ONLINE)

 

 あらすじにも書いてありますが、こちらは日本で初めてのカラー映画作品と言う事だそうですね。そういう意味では、日本映画史に残る映画と言う位置付けでも良いんでしょうか。せっかくのカラーですから、意識的なのか、カラフルな衣装が目立つようなそんな作品になっていましたね。東京からストリッパーとなった娘が田舎に帰ってくると言うストーリー。確かに見るからに「空気が読めない」風が伝わってくる、そんな人間描写でありました笑。まあ、当時は当然ながら、その都会の空気と、田舎の空気じゃ圧倒的に差があるでしょうし、また偏見や差別感情も根強かった事でしょう。盲目の男性が登場しますが、彼への差別的呼び名や差別的発言は、日常言語として普通にまかり通っていましたしね。また、盲目の彼もまたそれを受け入れていますしね。ただその、ストリッパーの娘たちが「頭が弱い」と言うようなイメージが描かれておりますが、そこまで周囲のレッテルってのは酷い物なのかなとは思いましたね笑。ある種、この映画もこの映画で、その辺誇張して描いてる節もあるのかもしれませんが、とにかく相当な偏見に満ち溢れている。もちろんまあ、彼女らのキャラクターが突出して異質に見せられているのは否めないのですが。まあ、今でもその一種の性的な偏見と言うのか、それは完全に無くなっているわけじゃ無いので、他人や時代について偉そうに言う資格は自分にも無いかもしれませんがね。

 

 例えば、この映画を見ると、彼女は子供の頃に牛に蹴飛ばされて意識を失うといった事があったらしく、それ以降、人格が大きく変わったという説明がありました。まあ、こういった設定を設けてまで、彼女らの良く言えば奔放さ、そして都会でストリッパーとして生きる事が、如何に異質であるかと言う事に、まあある意味現実性を持たせているわけですね。でも、当時はそう言った女性だって別に少なかったわけじゃないと思うんですがね。でも、まあ大手を振って周囲に「こんな仕事してます!」とは言えない空気があったのも事実なのでしょう。ましてや、本人はともかく、周りからすると白い目で見られる風潮は、もっとオープンにあったのでしょうね。さて、映画の中盤辺りで、小学校での運動会風景が描かれますが、ここでとある騒動が起きましてね。そこで、ストリッパーの子らの「場違い」な感じが、決定的となります。ここの雰囲気が妙にリアルでしたね。自分は結構印象的でした。やっぱりその、「悪気が無い」からこそのリアルってのがあると思います。仮に悪気があって、「運動会の雰囲気を台無しにしてやろう」っていう気持ちの元に描かれたシーンであれば、まあそれは一種の「作られた事件」って言うか。映画専用の状況だと思うんです。でも、別に誰かを傷つけようとか、意図的な悪意が無い分、余計まああり得る話と言えばあり得る話で、もっと居たたまれなさが見ているこちらにも、ダイレクトに伝わるなと。ここはまあ、結構繊細なシーンだなと思いまして、印象的でした。そして、彼女らは村でヌードショーを行う事を決めるんですけどね。

 

 

 まあ当然、このイベントに反感を覚える人もいるわけなんですけどもね。しかし、自分が良いなと思ったのは、この子たちがストリップショーを行う事で、直接的にそのイベントが誰かを「救う」と言うような展開にならないと言う事です。この映画の中で、基本的に困っている人は、まずこの帰郷した娘の父親、そして、借金が返せず大好きなオルガンを手放した盲目の男性と、その家族。この人たちが挙げられると思うんです。でも、この人たちはストリップショーには行かないんですよね。別にそれ自体を見に行って、楽しんだり、何か感動したりとかそういう描写は無いんですよ。ただ、映画の結末で言えば、結果的にはこのショーのおかげで、彼らが救われると言うような展開になるわけです。ここが何か、日本らしい格好の付け方に、勝手に自分は思ったんですけどね。まあ普通であれば、このストリッパーの娘たちが異端児なのですから、しかし、彼女らが旧態依然としたこの村の雰囲気に風穴を開けて、そして具体的に、直接的に一種のヒーローとなって行くと言う様が、ある意味、「王道」路線だと思います。でも、この映画はそうではない。彼女らは別に直接困っている人を救うわけじゃないんですよね。また、彼女ら自身も、具体的に「この人を助けたい」とか「この人の為に~」とか、そう言う気概を持っているわけじゃない。ただ、周り周って、誰かの為になりました、って言う落ち着け方。まあ、自分はこれもリアリティだなと思うし、なかなか味わい深い描き方だなと思ったんです。この娘の言動、姿を不憫に思う父親が描かれますけども、この父親は確かに不憫には思っているけども、しかし、実際はやはり可愛い娘であって、彼女の幸せや、奔放に生きる彼女の姿を応援していたり、愛している側面もあるんです。これがまあ、単純にセリフで描かれるのは少し味気ないなとは思いましたけども。

 

 ですから、まあ綺麗事と言えば綺麗事なんですけど、結局その、一瞬一瞬の姿や行動を見たら、「恥ずかしい事」であったり「バカバカしい事」に思えても、全景で捉えますと、案外それが救いになる事もまた往々にしてあり得ると言う事ですよね。誰かが辛い思いをしたら、誰かが良い思いをしていて、またその逆もあると。これは、はっきり言って、この世の中の宿命なんですよね。まあ、そんな事がこの映画ののどかな空気の中で描かれているような気が、自分はしました。何かこの手の雰囲気がヒーロー物としては自分は良いかなと思ったりもします。誰かを助けるのは素晴らしい事ですが、でも、それが売名行為になっているわけじゃなくてね。周り周って、誰かの為になってると、まあ本当に綺麗事に聞こえるでしょうが、でも、それは実際あり得る話なんですよ。もちろんまあ、周り周って誰かを傷つけると言う、逆のパターンもまたあり得るわけですが笑。普遍的なこれ構造のお話だと思いますね。これがまあ、自分は一種の「奥ゆかしさ」なのかなと思うんですよね。確かに決して派手では無いんですよね。ヒーローが現れてそのままそのヒーローが困った人を救ってくれる方が、見ている方としては一目瞭然、わかり易すぎる構造でしょう。しかし、実際はそう言う存在ってそうそういないんですよね笑。むしろ、正義とか善行の「押しつけがましさ」って言うのが無い分、妙に純粋さが際立ちますね。この映画、序盤で書きましたように、初のカラー映画と言う事ですから、そこをアピールしたいと言う意味合いもあるのでしょうけども、アップからカメラが徐々に引いて行って、全体が映る広い画に変わると言うカットが多いです。これは単純にまあ映画ならではの工夫だとも思えますが、同時に何か、この映画のその「この世の構造」を描く上では合っているこだわりなのかなとも勝手に感じました。先ほど書いたように一瞬一瞬であったり、その一つの物事だけを捉えても、本質は見えない。より「引いた」目線になると、如何に複雑だったり、あるいは色々な事が絡み合っているかという、物事の全景、本質が捉えられるのではないでしょうか。

 

 

おすすめ度☆☆☆