今年も、お花が届きました。昨日は、主人の妹25回目の命日でした。送り主は、遥か遠く沖縄から毎年心を向けてくださる妹の親友たち。一度も欠かすことなく、送り続けてくださっています。

主人の妹は、乳癌で37才で亡くなりました。当時、栃木県で歯科技工士をしていました。私はその頃31才、主人は40才長男が5才くらいだったと思います。

主人と妹は小さい頃から仲良しだったようですが、遠距離の為、その頃会えたのはお正月やお盆など年に数回でした。でも帰って来た時は長男をとても可愛がって遊んでくれました。

亡くなった年のゴールデンウィークに、主人の実家から突然電話がありました。妹が体調が悪く、電車にも乗れないので迎えに行ってほしいと言われました。なんとそのSOSは、4月の上旬に連絡が来た!と。

これはよほどのことではないかと考え、長男を私の実家に預けて連絡が来たその夜に栃木に向けて、山梨を車で出発しました。

主人も一度しか行ったことのない妹のアパートに向けて、今のようにナビもない時代に夢中で夜の高速を飛ばしました。首都高から埼玉を抜け、栃木に向かう高速へ。4〜5時間で高速を降り、近くのコンビニでアパートを探してようやくたどり着きました。今でも主人と話すのですが、ほとんど迷うこともなく着けたのは、何かに導かれていたのかなと思います。

まだ暗い中、アパートのドアを主人が叩きました。「◯◯子、兄ちゃんだ!迎えに来たぞ。開けてくれ!」何度か呼びかけているうちに、鍵が開きました。

そこにいたのは、痩せ細り立っているのもやっとの変わり果てた妹でした。「大丈夫か!さぁ、家に帰るぞ!」取るものもとりあえず、ほんの少しの荷物を持って、車の助手席に寝転びました。ただ、どうしても持っていかなければと妹がこだわったのは、酵素という水!それを飲んでいれば治ると信じていたようです。

多分、本人は自分が乳癌であることはわかっていたでしょう!ただその前から、帰省した時に健康に関して何かを信じて通っているようなことを言っていました。「病気は身体の歪みからなるから、仙骨を整える為にこの治療院で腰をコツンと落とす治療に通っているの。是非、一度行ってみたら。」もしかしたら、それからの「酵素水」だったかもしれません。

アパートにいたのは、40分。ゴールデンウィーク中の渋滞を考え、まさにトンボ帰りしました。山梨に向かう車の中で、いろいろ聞きました。「馬は草と水だけで、あんなに筋肉隆々な肉体を持っているのだから・・・」と、酵素水に対する信心はかなり強くありました。それと裏腹に体調はとても悪く、息も絶え絶え。骨転移なのか、身体中痛い!腰が痛い!とかなりの痛みを訴えていました。もしかしたら山梨まで辿り着けないかも。何度も、首都高で「どこかの病院に行こう!」と言いましたが、きっぱり断られました。「とにかく家に帰りたい!」と。

途中のSAで立ち寄ってトイレに行くのも、支えてあげないと無理。主人が必死に運転して甲府盆地が眼下に広がった時、主人が「◯◯子、帰って来たぞ!」と声をかけました。妹は嬉しそうに頷いていました。多分、このタイミングを逃したら実家には戻れなかったと思います。

主人と私は病院に直行することを勧めましたが、頑として家にと言われ、必ず病院に行く約束で実家に送り届けました。もちろん実家では主人の両親と兄が待っていて、喜んでくれました。ただ、妹が降りても、車の中に残った異臭はしばらく取れませんでした。この時点で妹は胸に生理用ナプキンを当てていたので、そこから分泌液がかなり出ていたのだと思います。

その後1カ月、妹は病院にかかることなく家にいて、兄が呼んだ救急車にも乗りませんでした。とうとう観念して乗った救急車に連れていかれたのは、後に閉院を余儀なくされた悪徳病院。入院したことを内緒にしていた義母。義父は、100日妹に付き添ったそうです。

入院場所を突き止め主人と私でその病院に行きました。院長に会って話しを聞くと、「もう手の施しようがないので、連れて帰って結構です。」と言われました。病院で言葉を交わした妹は、実家に戻った時には意識がなくなり下顎呼吸になっていました。私は、この時実家で旅立ったのだと思っています。

親戚の叔母が話を聞きつけ、すぐに知り合いの総合病院に行くよう手配してくれました。救急車が来てストレッチャーに乗せた妹に付き添って、何故か私が乗りこみました。病院に着くまでの5分の間に、救急車の中で心肺停止に。「蘇生しますか?」と救急隊員に聞かれ、思わず「はい!お願いします。」と言っていました。その時はわからなかったけれど、それから亡くなるまでの1週間で両親や主人などみんなが妹の死を受け入れる時間になったと思っています。

救急車の中で、私は必死に呼びかけました。救急隊員は、人工マッサージをしながら病院に入っていきました。診察してくださった外科の先生は、「今まで何十年外科医として乳癌の患者さんを診て来ましたが、全くの無治療での状態を見たのは初めてです。すでに胸は崩れ心臓や肺などが見える状態ですので、ご家族は見ない方がいい。ここまで無治療でこられたのは、よほど強い意志か信仰などがあったからだと思います。普通の精神状態では、いられないと思う。」とおっしゃっていました。

亡くなるまでの1週間、母は娘の為に成人式に着た振袖を繕い直していました。妹が旅立ち1ケ月した頃、父と主人と私で再び栃木のアパートに行き、全てを引き払って来ました。37才の若さで逝った妹に、残された父の悲しみは途方もなく深く見ていられなかったことを覚えています。主人が声を上げて泣くのを、初めて見ました。悲しい記憶です。

25年経った今、奇しくも同じ癌という病と闘っている主人。治療についてはそれぞれの人生、自分自身で選択すること。何が正解かなんてないと思いますが、癌は治療も苦しい闘い、無治療も想像を絶する闘いだと身をもって感じました。父のようにハラリと花びらが散るように逝く命もあれば、そう簡単に人間死ねない!と、でも死ねない!じゃなくて死なない!って、主人と私は必死に最後まで生きることに執着したいです。

これは、私の人生で決して忘れられない、引き出しの奥の話です。