鉄道省半田鉄道局

鉄道省半田鉄道局

1/80鉄道模型(Jゲージ)工作記事を中心に、鉄道と身の回りの出来事を書いてゆきます。
​(平成26年11月8日Yahooで開設、令和元年6月22日こちらに移転しました)

12月21日は半田市SL資料館の当番日でしたが、機関車のすべり止めの砂をパッケージングした合格祈念切符の配布も行われ、10時開始でわずか20分で200枚を配布完了しました。この時は延べ200人のお客様が来られましたが、雨のせいか、一般の見学者は6名に留まりました。いつもは機関車の説明で忙しいのですが、今日は前面展望DVDを鑑賞したりして、まったりと過ごせました。

さて、課題のサンドボックス(砂箱)です。3両とも手動式で、原形の1本から2本に改造されています。西濃鉄道2105号機の西尾さん写真に鮮明に写っており、これを模型化します。

まず原形の1本が出ていた孔と、作用ロッドの軸孔を埋めました。裾は真鍮板でこれも併せて半田で固定しました。

砂撒き装置部分の座板は、リベット打出し機を使って左右のボルトと砂撒き管用穴と作用軸のマーキングを行いました。写真の先行試作は左右ボルト間隔3㎜としたところ、やや大きいので2.5㎜間隔に変更しました。

6枚作りました。この時点で砂撒き管取り出し孔間隔は1㎜となっていました。

余剰のボイラーがあったので、3輌分をネジ止めして3つの取付位置が揃うようにしました。ここまでやって、砂撒き管間隔が1㎜では離れすぎなので、0.5㎜間隔で座板を作り直しました。

作用軸の穴Φ0.4と砂撒き管の穴Φ0.5を砂箱本体に共明けし、Φ0.4線の軸とΦ0.5砂撒き管を差し込みました。砂撒き管根元にはパイプをつぶして被せて、根本の座のボス部を表現しました。

3輌とも無事砂箱を取付けることが出来ました。課題をクリヤして安堵。あとは粛々と進めるだけなので、正月休み中には終わりそうです。来週はまた貨車研究会なので、そのレポート(関西鉄道と山陽鉄道由来のワ1形)もまとめることにします。

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金曜日は、手術した左眼のフォロー定期健診のため、午後会社休み。健診時間まで間があるので、笠寺へ寄って貨物列車ウォッチを楽しみました。

笠寺に13時20分頃着くと、トヨタロングパスエクスプレスが到着していました。牽引機はEF210-301でした。

EF210-301は300番台のTOPナンバーですね。瀬八に入ったころは広島まで見に行けず、でしたがまさか笠寺で見られるとは思いませんでした。8067レは吹田区の運用ですが、広島用が入ることがあるのかどうか、カマ屋さんでないので詳しく知りません。

上りのSS60 カンガルーライナーも通過。コンテナの走行形式写真、と言いながらカントがあるので斜めっています。

コンテナ車を見ていると、コキ104-1234という気の利いた番号も来ます。

JFEの無蓋コンテナも来ます。橋梁、鉄骨メーカーもこういった鉄道輸送を考えてくれると良いですね。

EF210-9です。普段100、300番台を多く見るので、若番を見ると得した気分になります。

赤ホキ列車8785レです。ホキ2000清一色かと思いきや、ホキ9500形19502が全検を受けて運用に入っていました。確か10月が全検切れで、法定耐用年数も消化しているので消滅か?と予想していたのですが、嬉しい方向に期待を裏切ってくれました。他の方のブログを見ると9月17日に南松本経由で川崎に回送されたようです。ホキ19500、19501も受けるのかな?

本日は日車発送の太平洋セメントタキ1300形14~19の甲種回送もありました。貨車仲間は豊川に行くと言ってましたが私は仕事も眼の検診もあるし、で笠寺で捉えることにしたのです。他に撮影者は0でした。

笠寺は15:02着で、313系各停を追い抜かせて、15:06発です。発車後低速なので”走行形式写真”も撮ります。

ヨ8000形も自分が学生時代に登場したので、もう40年超えですね。全検受けてマダマダ頑張っています。

小春日和で、非常に暖かく、格好の貨車ウオッチ日和でした。眼科検診も、金曜日とあってか混んでいていつもより待たされましたが、偉い先生に診てもらえました。術後の経過は順調で、左眼の網膜も浮腫はほ無くなり、何気に遠くを見るときは異常を感じない程度には回復しました。

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日曜日は、半田市SL保存会の清掃日で出かけました。幸い雨も上がり、日差しも暖かく作業日和でした。さて、B6の報告をします。

まず参考写真とした、西尾克三郎氏撮影の2194です。遊び半分でGeminiでカラー化したら、こんな写真を返してくれてビックリです。原画で不鮮明だった背後の煉瓦庫は勝手に木造建屋にしてきましたが、ここはプロンプトで工夫するところでしょう。

2194号機が上、2147号機が下です。エアタンクの前後位置は写真を見て変えております。前方から出た空気管は両機ともタンクの下を這うので、サイドタンクの前の管接手で付き合わせています。なおエコーモデルで買ったHSモデルの挽物製管接手が1個不足したので、Φ1.2-0.6パイプを旋盤にかけて、管接手っぽく作って補いました。

2194号機が上、2147号機が下です。空気管の右側から左側に渡る部分は、2194がサイドタンク前、2147は煙室の直後です。こちら側もエアタンクの穴に突っ込むだけなので、管位置が落ち着くよう、渡る部分を帯板で支えています。

2147号機(手前)は空気管の水平部とハンドレールの間2か所に、帯板で支えを設けました。ドームも取り付けました。珊瑚のパーツですが、裾部分加工時のプレス傷があるため、旋盤にかけて布ペーパーで仕上げました。さあ、次は砂箱です。原形では裾から1本出るだけですが、昭和初期は高い位置に取付座を設けて、そこから2本出ています。戦後の写真では空気砂撒栓に交換したものも多いですが、2147、2194、2308号機の戦前の配置表を見ると、2308号機だけが昭和19年1月配置表で「サ」の記号が付き、この時期に空気砂撒栓が取り付けられたことがわかりました。当局は基本昭和14年位までを想定するので、3両とも手動式とします。

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しつこく、伊豆箱根の木造ワの手掛かりを探ります。国立公文書館へは行けないのですが、検索で件名だけ拾って、貨車関係を列挙しました。明治45年より前は車両個別の申請文書が存在しませんが、目論見書、工事認可申請には車両についても記載されている可能性はあります。

これと、前回まとめた表と比較してみます。

明治45年と大正4年の無蓋車新造と増加は、年報の表と対応しています。ショックなのは、有蓋車・無蓋車が増加した大正6年が「書類焼失」となっていること。これでは新製時の仕様・メーカーは不明となりますが、後の増トン改造の申請時に旧仕様や認可日・認可番号が記載される場合があるので、それに期待です。または車両竣工図表があれば。

大正10年の貨車設計変更はトン数に変化がなさそうで、例えばブレーキシュウの数を増やすとかだったかもしれません。

大正11年の無蓋車4両減は、文書では大正12年の貨車廃車届が対応しそうながら、時期の齟齬は気になります。

大正13年の貨車設計変更と14年の嵩積増加と増噸の竣工は恐らく対をなすもので、自連化改造と併せての工事と推測できます。

気になる大正15年の省有貨車譲受は、何故か貨車輌数に反映されていません。車掌車ヨフ6000が譲受後客車に復元とか? 昭和14年にも省有貨車譲受があり、今思い出したのですが、通風車ツ400形が払い下げられてるので、これかもしれませんね。大正3年天野製のワブなども他社譲受の可能性もあります。省有貨車の譲受がある以上、やはり鉄道省文書の調査は必須です。

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AIで写真修復が出来た伊豆箱根鉄道の木造有蓋車が気になってしまい、昨晩寝る時間を削って、国立国会図書館デジタルアーカイブで鉄道局、鉄道院、鉄道省の各年報を漁って、豆相鉄道以来の貨車の変遷を当たってみました。

さて、まず創業時から明治後期への変遷を見てみましょう。

豆相鉄道営業開始の明治31年には「有蓋車4,無蓋車5,緩急車3」とあります。この緩急車というのは普通はワブなんですが,少し後の車種分類を見ると,有蓋緩急車2,無蓋緩急車1(手用制動機付)であったと思われます。創業時の車籍を引き継ぐワブ11が東京車輌製とのことなので、これらも東京車輌製だったのでしょう。明治32年の分類は?です。明治33~35年は有蓋車、無蓋車それぞれに緩急車を×印で輌数を区別するようになりました。明治34年の7噸積み無蓋車は謎です。明治36~39年は年報の「貨車表」欄では豆相は空欄で、欄外に「三島銀行より有蓋車6輌、無蓋車6輌借入」となっています。明治40年に輌数の異動があり、有蓋車3輌が無蓋車に改造された様子がわかります。また明治40~43年は伊豆鉄道と社名を変えています。

大正3年に有蓋車2輌増えているように見えますが、大正3年以降、年報では緩急車・手用制動機付きが区分されなくなったので、これが含まれていることに注意です。大正6年に7噸積み有蓋車が7輌新造されています。ちなみに大正5,6年は富士水電とまたまた社名を変えています。

謎のワの翌日に大場でワブ3も撮ってました。Gゲージ鉄道模型・風雅松本亭さんのブログでは大正3年天野工製とのことですが、上記の輌数変遷と合いません。まさか、設計認可申請または竣工届が遅れた、ということではないと思いますが、やはり国立公文書館での文書調査が必要です。足回りは何と長軸だし、ワム3500形やトキ900形で見られた型鋼組の軸箱守など改造規模は他の私鉄貨車に比べて大きい気がします。

大正後半です。大正10,11年は年報の手抜き?でトン数別がされていません。大正14年は異動があり、6・7噸積みが消え、10噸積みが8輌登場しています。これは6噸有蓋車1輌,7噸有蓋車7量を10噸積に増トン改造したことが明らかで、自連改造工事と一緒に行ったのでしょうね。原形の鋼木合造台枠を鋼製台枠に改造したかもしれません。増トンから取り残されたのは緩急車だと思われます。なお昭和初期に、非常弁を持たない私鉄緩急車は「ワフ」ではなく「ワブ」とするよう、鉄道省から指導が入っており、いくつかの私鉄がワフをワブに記号変更しております。ワブ3やワブ11もその類ですね。

それで、これ以降は昭和12年まで輌数の移動はありません。Geminiが出してきた「昭和5年日車製」はやはりガセだったとわかりました。現時点で木製有蓋車は明治31年または大正6年製のどちらかであろう、という期待は残りましたが、車体を見ると10噸車には見えないんだよなあ。引き続き調査を続けましょう。貨車は未知が多いから、面白いです。

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