『三筆』
として、嵯峨天皇、弘法大師空海、橘逸勢…って、学校で習いませんでしたか?
平安のミヤコを造りし桓武天皇のご子息で次代の平城上皇…が、のたまふ『二所朝廷 』。
しかし弟の嵯峨天皇に既に譲位をしてはるのだよ…京のミヤコをミヤコとして存続させた嵯峨帝。
ごっつ仲のヨイ空海は嵯峨天皇の為に祈る祈る祈る(このトキの神像が東寺にいてはる)。
嵯峨天皇の皇后として名をはせる『壇林皇后(=橘嘉智子/かちこ)』。
空海の影響からか、仏教マニアであったとされております。
氏族『橘氏』の為に学校を建てたり、壇林院 跡は後々『天龍寺 』が建立されたり…
弘法大師と伝教大師は共に渡海してはりますな、うんうん。
このトキのパーティーに橘逸勢はいてると聞いております。
彼は後の世でこの二人が『宗祖』になっちゃうコトを、どこまで感じていたのでしょうかねぇ~…
弘法大師に東寺を下賜、高野山開創を承諾したのは嵯峨天皇。
伝教大師(の入滅後やけど)の切なる願い『大乗戒壇』を承諾したのも嵯峨天皇。
この嵯峨天皇・壇林皇后の近くにいたのが逸勢…そしてっ!『藤原冬嗣』。
嵯峨・平城天皇の兄弟対決を、嵯峨帝サイドから仲裁に奔走したのが淳和天皇…とされています。
嵯峨天皇は弟(いうても同い歳のハズ)の淳和天皇に譲位し上皇へ。
嵯峨天皇・壇林皇后の間に誕生した男女二人(双子説まである)のが…
正良 正子
この正子内親王が淳和天皇の妃とならはった。
そして正良親王に我が子『順子』を嫁がせたのが出世街道まっしぐら・冬嗣…
順子の兄があの『藤原良房』だったりする…し、良房の兄が長良(=高子や基経の父)。
淳和天皇の御世に、あの『東寺VS西寺 』事件や『伏見稲荷ご神木 』事件が勃発している。
嵯峨上皇の威光はキラキラ輝く…ぞ…
『大伴親王』が淳和天皇とならはったのだ。
即位に伴い、古代豪族『大伴氏』は『伴氏』と名を変える…畏レ多イ事デ、ゴジャリマス故…。
大伴親王の母は『藤原旅子』。
道鏡・宇佐八幡さんの神託に敗れる…事件をかいくぐり、
淳和天皇の父・桓武天皇の即位に一番貢献をした側近中の側近『藤原百川』の娘。
しか~し!
同じ藤原氏とはいえ、冬嗣は北家…百川は式家…全くの別物だわいなぁ~…ムフ♪
薬子の乱の薬子も、死刑となった薬子の兄弟仲成も式家…ギョヘ~没落の一途…
壇林皇后の娘であり、淳和天皇の皇后である正子さんは、我が子・恒貞親王への皇位継承を
望んでいたとされております。
しかし…現実は正良親王(仁明天皇)…ジワッと忍び寄る藤原氏…
正子内親王にはガツッとした後ろ盾がいない上に、淳和天皇は控え目なお方。
治世は穏やかであったそうですしね。
恒貞親王は仁明天皇の皇太子となります。
このジワッと忍び寄る藤原氏への危機感を感じていた一人に名が挙がるのが『橘逸勢』。
何たって仁明天皇と冬嗣の娘(=良房の妹)順子との間に男子が誕生。
この男子に良房の娘『明子(あきらけいこ)』が嫁いじゃうよぉ~…
悲劇は淳和天皇が嵯峨上皇よりも先に崩御してしまいはった…といふコトでしょうか…
ほどなく嵯峨上皇が体調を崩し、崩御しはったコトでしょうか…
ココで動いた…であろう…藤原良房…
淳和天皇と正子さんの子・恒貞親王の廃太子に成功、連座する三筆の一人『橘逸勢』。
忘れちゃいけない『藤原吉野』。
壇林皇后に親族の橘逸勢(&伴健岑/とものこわみね)謀反の疑いをチクッた、とされる…
おじいちゃん・平城天皇の火の粉を被った阿保親王(←息子が有名『在原業平』)。
世に伝わる『承和の変』で、橘氏・大伴氏、虫の息の式家の排除を成し遂げた良房(←黒幕ちゃうん?)は、
外戚の地位を得、ヒト(人臣)として日本史上初の『摂政』となるわけだぁ~♪
いや~ん、この辺り…ドラマにでもしとくれやすなぁ~ о(ж>▽<)y ☆
淳和天皇の後院となったのは、現・京都の『西院』…『西院宮=淳和院』。
阪急電車の『西院』駅で下車した北西方向にある『ジョーシン電気』さんの壁に
こんなのがあるよ♪
大きな敷地の、四条通を挟んだ南側には正子さんのお住まい『松院(まつのいん)』が
あったといわれています。
淳和天皇から仁明天皇への譲位が行われたともされる『西院御所』。
淳和上皇はコチラで後年を過ごしておいでじゃ。
まぁ、それでなくても長いこの記事を、もっと長くしちゃうと…
摂関政治といわれたこの時期、皇族の人数調整が始まったとされておりますな、うんうん。
皇族賜姓(こうぞくしせい)で有名なのが『源氏(みなもとうじ)』…
源流は皇室と同じだよ♪っていう意味なんだとか。
臣下となりし『賜姓・源氏』は、地位が高い上に妙にリッチ。
先蹤となりしは『嵯峨源氏』ですよね♪
この『賜姓源氏』というブランドにブンブン集る藤原氏…縁組しまくり♪
この源氏を束ねるモノが『源氏長者』、この地位と共に与えられる『淳和院別当』&『奨学院別当』。
嵯峨帝・壇林皇后・淳和帝の陵墓を管理する名誉ある公卿さん…の、拠点がコチラであったと
されておりますな。
この『淳和院別当』設置の発案者が、淳和天皇と正子さんの皇子、恒貞親王なんだとさ。
淳和帝崩御後、藤原氏は何とこの地に氏神を勧請。
淳和天皇の怨霊化を阻止したかったのでしょうかねぇ~。
いやさ…
正子さんの怨霊化を一番恐れていたのでしょう…ってのを、何となく感じる場所へ…
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