「初任給を上げないと、もう人が来ないんですよ」
「今年の新人の給料ですか? 近所の求人を見ながら、決めました」
「先輩たちの給料? それは、まあ、追々考えます」
「……三年目の子が、辞めたいと言ってきました。理由を聞いたら、今年の新人の給料を知ってしまったそうです」
——給料は、どれほど隠しても、いつか必ず伝わります。
そして伝わったとき、「なぜこの金額なのか」を説明できるでしょうか。
毎年、新人の給料だけを直していないか
前回までの二回で、最低賃金の改定が、月給の社員や固定残業代にどう影響するかを見てきました。
今回は、もう一段広い視点に移ります。
賃金の体系です。
最低賃金が上がる。
求人の相場も上がる。
人を採るために、初任給を上げる。
——ここまでは、多くの会社が対応しています。
では、すでに働いている先輩たちの給料は、どうしたでしょうか。
最低賃金を下回った人だけ、ぎりぎりまで引き上げた。
それ以外の人は、いつもどおりの昇給。
——そうした対応を何年も重ねるうちに、新人と先輩の差が、少しずつ縮んでいきます。
そして、ある年、ついに追いつきます。
ある会社の、四人の給料
具体的に見てみましょう。
前回までと同じく、三重県の会社で、最低賃金を満たすには基本給が約198,120円以上必要な会社とします。
この会社には、賃金表がありません。
給料は、入社のときに社長が相場を見て決め、その後は毎年、社長が一人ひとりの昇給額を決めてきました。
今年の4人の基本給は、次のとおりです。
10年目のDさん 225,000円
5年目のCさん 205,000円
3年目のAさん 189,000円(3年前の初任給180,000円に、毎年3,000円ずつ昇給)
今年入社のBさん 198,500円(求人相場と最低賃金を見て決めた初任給)
まず、新人のBさんが、3年目のAさんを上回っています。
しかも、Aさんの189,000円は、今年の最低賃金を下回っています。
会社は慌てて、Aさんの基本給を引き上げました。
新人と同じ198,500円に。
その結果、こうなりました。
3年目のAさんと、新人のBさんが、同じ給料。
5年目のCさんとの差は、わずか6,500円。
Aさんの3年間の経験は、給料の上ではゼロになりました。
Cさんの5年間も、6,500円にしかなっていません。
人事の世界では、こうした状態を「賃金の圧縮」と呼びます。
下からの引上げに押されて、経験年数や役割による差が押しつぶされていくのです。
圧縮が起きた会社で、何が起きるか
圧縮は、帳簿の上では何の問題もないように見えます。
誰も最低賃金を下回っていない。
総人件費も、大きくは増えていない。
しかし、職場では、確実に何かが壊れていきます。
一つ目、中堅が辞めていく。
冒頭の三年目の社員のように、新人との差が消えたことを知った中堅社員は、「この会社で経験を積む意味は何なのか」と考え始めます。
そして、会社にとって最も手放したくない、仕事を覚えた人材から、外に目を向けていきます。
二つ目、昇給の意味が失われる。
毎年3,000円ずつ上がってきた。
しかし、新人は一年目から自分と同じ額をもらっている。
——そうなると、それまでの昇給は、何に対して払われていたのかが分からなくなります。
三つ目、声の大きい人だけが上がる。
賃金表のない会社では、給料は社長と社員の一対一の話し合いで決まりがちです。
「辞めます」と言った人だけが上がる。
言わない人は据え置かれる。
——黙って働き続ける真面目な人ほど、損をする仕組みになっていきます。
そして、最も根本的な問題があります。
社長自身が、「なぜこの人がこの金額なのか」を説明できないことです。
給料の決め方が、社長の頭の中にしかない
前回の連載「心理的安全性を設計する」の第1回で、私はこう書きました。
上司が良い人でなければ回らない制度は、制度ではない。
賃金表のない会社の給料は、まさにこれです。
給料の決め方は、社長の頭の中にしかありません。
社長は、一人ひとりの頑張りを見て、誠実に決めているつもりです。
そして実際、多くの社長は誠実です。
しかし、その決め方は、社長以外の誰にも見えません。
社員から見れば、自分の給料がなぜこの金額なのか分からない。
来年いくらになるのかも分からない。
何をすれば上がるのかも分からない。
そして、社長が交代したら。
社長が忙しくて、一人ひとりを見る余裕がなくなったら。
——その決め方は、跡形もなく消えます。
社長の頭の中にある給料の決め方は、社長と一緒に去ります。
紙に書かれた決め方は、残ります。
自衛官の給料は、公開された表で決まる
ここで、少しだけ私自身の話をさせてください。
私は33年間、自衛官として給料をもらってきました。
自衛官の給料は、法律で定められた俸給表によって決まります。
階級ごとに、勤続や評価に応じて段階的に上がっていく金額が、表として定められています。
そして、その表は公開されています。
つまり、自衛官は誰でも、自分がいまいくらもらっていて、昇任したらいくらになり、何年後にはどのあたりになるのかを、表を見れば知ることができます。
上官の気分で給料が決まることはありません。
声の大きい人だけが上がることもありません。
そして、給与水準を見直すときは、新人だけでなく、表全体が改定されます。
もちろん、中小企業が自衛隊や公務員と同じような細かい表を作る必要はありません。
年功で自動的に上がっていく仕組みが、すべての会社に合うわけでもありません。
ただ、一つだけ、借りるべき考え方があります。
給料の決め方が、表として書かれ、見えていること。
それだけで、社員は自分の給料を「社長に決められるもの」ではなく、「自分で見通せるもの」として受け止められるようになります。
小さな会社のための、最小限の賃金表
では、中小企業、とくに社員が数人から数十人の会社は、どのような賃金表を作ればよいでしょうか。
私がお勧めしているのは、等級と範囲給の組み合わせという、最もシンプルな形です。
一、等級を、3〜5段階に分ける
まず、社員の役割を、いくつかの段階に分けます。
たとえば、次のような4段階です。
1級 指示を受けて、作業を正確に行う(見習い・新人)
2級 担当業務を、一人で完結できる(一人前)
3級 後輩を指導し、現場の判断を担う(リーダー)
4級 部署やチームを管理する(管理者)
ここで大切なのは、等級を年数ではなく、役割で定義することです。
前の連載のVol.2でお話しした「期待役割」が、そのまま等級の定義になります。
二、等級ごとに、給料の幅を決める
次に、それぞれの等級に、基本給の下限と上限を決めます。
たとえば、
1級 200,000円〜220,000円
2級 215,000円〜250,000円
3級 245,000円〜290,000円
4級 280,000円〜340,000円
隣の等級と少し重なっていてもかまいません。
同じ等級の中では、経験や評価に応じて、下限から上限に向かって昇給していきます。
そして、上の等級に上がらなければ、上限を超えては上がらないようにします。
これで、「長くいるだけで給料が上がり続ける」ことを防ぎつつ、「役割が上がれば給料も上がる」という道筋が見えるようになります。
三、1級の下限を、最低賃金と照らし合わせる
ここが、この連載の主題とつながる部分です。
1級の下限は、最低賃金を、余裕をもって上回っていなければなりません。
上の例では、1級の下限は200,000円で、今年の最低賃金を満たすのに必要な約198,120円を上回っています。
しかし、来年、最低賃金が今年と同じくらい上がったらどうでしょうか。
仮に56円上がって1,199円になれば、必要な基本給は約207,800円になります。
1級の下限200,000円は、来年には基準を下回ります。
つまり、賃金表は、作って終わりではありません。
毎年の最低賃金の改定のたびに、1級の下限が基準を上回っているかを確認し、必要なら表を見直す。
これこそが、最低賃金の改定を「賃金制度を点検する年に一度の機会」にするということです。
下を上げるとき、上をどうするか
最低賃金に合わせて1級の下限を上げるとき、必ず出てくる問いがあります。
「上の等級は、どうするのか」
選択肢は、大きく三つあります。
一つ目、表全体を同じ額だけ上げる。
全員の給料が同じ額だけ上がるので、圧縮は起きません。
ただし、人件費の増加は最も大きくなります。
二つ目、下の等級だけ上げる。
人件費は抑えられますが、等級間の差が縮み、冒頭のような圧縮が起きます。
毎年これを続けると、等級の意味が失われていきます。
三つ目、下の等級を上げ、上の等級は差が保てる分だけ上げる。
1級を大きく上げ、2級、3級と、上に行くほど上げ幅を小さくする。
人件費を抑えつつ、等級間の差をある程度保つ、中間の方法です。
どれを選ぶかは、会社の体力次第です。
ただ、大切なのは、どれを選んだのかを、社長自身が自覚していることです。
賃金表がない会社では、二つ目の方法が、誰も選んだつもりがないまま続いていきます。
賃金表があれば、少なくとも「今年は下だけ上げたから、上との差が縮んだ」と目に見えます。
見えていれば、次の年に手を打てます。
賃金表を入れるとき、給料を下げてはいけない
最後に、大切な注意を一つ。
賃金表を新しく作ると、いまの給料が、表の範囲に収まらない社員が出てきます。
下限を下回っている社員は、下限まで引き上げます。
問題は、上限を上回っている社員です。このとき、表に合わせて給料を下げることは、原則としてできません。
労働条件の不利益変更になるからです。
この場合は、超えている部分を「調整給」などとして当面支給を続け、昇格や今後の昇給の中で、段階的に表の中に収めていくのが一般的です。
また、給料の決め方や昇給に関する事項は、就業規則に必ず記載しなければならない事項とされています。
賃金表を作ったら、賃金規程と合わせて整備してください。
現場の言葉に置き換えると
(NG)「新人の給料は、毎年、求人相場を見て決める」
→(OK)「新人は1級の下限から始まる。下限は、毎年の最低賃金の改定に合わせて見直す」
(NG)「先輩の給料は、追々考える」
→(OK)「下限を上げるときは、上の等級との差をどう保つかを、同時に決める」
(NG)「給料は、社長が一人ひとりを見て決めている」
→(OK)「等級と範囲給を表にして、社員が自分の給料の位置と道筋を確認できるようにする」
(NG)「辞めると言ってきたから、上げてやった」
→(OK)「昇給は、等級と評価のルールで決める。個別の交渉では決めない」
明日からのアクションプラン
① 入社年次ごとに、基本給を並べてみる
まず、全社員の基本給を、入社年次の順に並べてください。
紙一枚でかまいません。
左から右へ、新人から古参まで。
名前は伏せて、年次と基本給だけでも十分です。
並べてみると、数字が右に向かって素直に上がっているかが、一目で分かります。
② 逆転と圧縮がないか、確認する
①の並びを見て、次の点を確認してください。
後から入った人が、先に入った人より高くなっていないか。(逆転)
数年の経験差があるのに、ほとんど差がない組み合わせはないか。(圧縮)
逆転や圧縮があれば、それがなぜ起きたのかを思い出してください。
多くの場合、最低賃金や初任給に合わせて下だけを上げた年が、その原因になっています。
③ 最低限の等級を、3〜5段階で書き出す
最後に、自社の社員の役割を、3〜5段階に分けて書き出してください。
「新人」「一人前」「リーダー」「管理者」——名前は何でもかまいません。
大切なのは、それぞれの段階で、会社が何を期待しているかを一行で書くことです。
そして、①の並びの社員を、その段階に当てはめてみてください。
等級が同じなのに給料が大きく違う人、等級が違うのに給料が同じ人が見えてきたら、それが賃金表を作るときの、最初の調整ポイントになります。
給料の決め方を、紙に書く
今日、あなたの会社で、誰かが自分の給料と同僚の給料を比べたかもしれません。
そのとき、その人は納得できたでしょうか。
給料の金額そのものよりも、社員が不満を持つのは、なぜその金額なのかが分からないことです。
そして、自分より後に入った人が、自分と同じか、それ以上をもらっていると知ったとき、その不満は一気に表に出てきます。
自衛官の給料が公開された表で決まるように、中小企業にも、小さくてもいいから、紙に書かれた給料の決め方が必要です。
それがあれば、最低賃金が上がった年にも、どこを、どれだけ直せばよいかが分かります。
社長が替わっても、決め方は残ります。
そして社員は、自分の給料を、会社からの一方的な通知ではなく、見通せる道筋として受け止められるようになります。
給料の決め方は、社長の頭の中ではなく、紙の上に置く。
次回、Vol.4「その手当、何のために払っていますか」。
作った理由が忘れられたまま残り続ける手当が、どのように格差と誤解を生むのか——手当の棚卸しのお話です。
以上いかがでしたでしょうか?
もし共感いただけるようでしたら、コメントやスキを押してくれると励みになります。
なお、ワラビー社会保険労務士事務所/行政書士事務所では、小規模事業者向けの等級・範囲給による賃金表の作成、現在の給与からの移行計画(調整給の設計を含む)、賃金規程・就業規則の整備、最低賃金改定にあわせた毎年の賃金表の見直しまでをご支援しています。
「新人と先輩の給料が近づいてきて、どうしたらよいか分からない」「給料の決め方を社員に説明できない」というご相談は、賃金表がないことから生まれていることがほとんどです。
大がかりな人事制度でなくても、3〜5段階の等級と給料の幅を一枚の紙に書くだけで、毎年の判断が大きく変わります。
当事務所は完全オンラインでの対応を基本としておりますので、全国どちらの企業様でも、移動の負担なくご相談いただけます。
ぜひお気軽にご用命ください。
ワラビー社会保険労務士事務所/行政書士事務所
社会保険労務士・行政書士 渡辺 忍
