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Walkley 17 Manila

Part 2


航空機内でたまたま隣同士になった陽気なフィリピン女性と話しながら税関を抜ける。

ハッと前を見ると、亀田興毅Championではないか!?さすがは、Champion。ガードマンに囲まれて、優先して、税関を抜けた。後で調べたら、彼の機内の席は私の斜め前あたりだった。

「何しに行くの?」「TRABAHO。仕事だよ。」と答えると、

「女と遊びに行くんじゃないの?キャハハ」と笑われて、また虚しさが甦った。

空港内は、エアコンが効いて気持ち良かったのに、一歩外に出ると汗が滲んできた。3年前に来たときは、エスカレーターが止まり、窓が割れていたのに、今はガラス窓も葺きかえられて、綺麗になっていた。ターミナルも第二が増設。ちなみにJALは第一ターミナル(2010年に撤退が決定。ANA20111月より就航決定)。世界へ出稼ぎに行く、フィリピン人の強さを知った。ホテルのタクシーがお迎えに来るはずだが、見当たらない。「TAXI?」と声かけられるが、無視、むし!ムシ!!ホテルの名前の入った制服!見つけた。手続きとホテルのフロントへ連絡し、しばらくするとTAXIが来た。


PAN PACIFIC HOTEL RESORT

ホテルに着いた。世界に名立たるFIVE STARS HOTEL。バンクーバーを本社に、太平洋を中心に展開中!まず、お迎えは、スーツケース内の爆発物をサーチする、爆弾探知犬。アーミー衣装の警備員とともに警備中。お疲れ様です。

しっかりANAマイルを貯め、WELCOME COCKTAIL(といいながら、マンゴーをベースにしたノンアルコール)で一人乾杯して、部屋へ。寒いくらいにエアコンが効いているので、エアコンを消した。WELCOME MANGOを食べ、風呂に入った。私が過すには贅沢すぎるほどだ。気を引き締めた。

携帯で連絡すると以前一緒に乗船したクルーから連絡があり、DINNERを食べることになった。約4年ぶりの再会。調度、腕を骨折して、乗船出来ないのだという。ホテルのロビーで待ち合わせた。軽く4年ぶりの会話で盛り上がる。お互い、4年分老けていた。フィリピン人スタッフお勧めのROBINSON SHOPPING MALLが歩いて10分の所にあるので、ロビンソンに行くことになった。いきなり、出入り口で女性より女性らしいゲイ集団に遭遇。異様な空気。

SHOPPING MALLだけをみれば、発展途上国とは思えない。聞くと皆WINDOW SHOPPINGが好きなんだそうな。MALLしかないんじゃないの?と突っ込みたくなったが、止めた。

NBAのジャージーを売っているスポーツショップを見て、

「アジア人初のNBAプレーヤーはワッツ・ミサカ(正確には日系二世)という日本人なんだよ」

と独り言。

そして、携帯電話。MOTOROLA V3 modelが欲しいので、探したが、NOKIAしか見当たらない。仕方がないので、NOKIAを買った。「使用できる範囲は?」と訊ねると、「フィリピン人がいるところは使用可能だ」という。ということは、「So AROUND THE WORLDright?」と答えると携帯ショップの店長が笑っていた。SIM CARDを買い、RELOAD CARDも購入。後は、色々登録するだけだ。


to be continued


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Part 1


今週より、毎週お届けする、Walkley17 @ Manila。

海の大航海を行った航海者や現地の英雄までを網羅。

Pues vamos empesar.




ニノイ・アキノ空港に、マニラに着いた。暑い。



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niladがたくさん生えている」ことから、Manilaと呼ばれるようになったという(MaMayは生えているという意味のサンスクリット系の言葉)。nilad(フィリピン固有の花)という名前を見てもわかるように、アラブ・イスラム系の名前。スペイン人が来るまで、フィリピンはイスラム教国だった。イスラムの船乗りがアラブの国々からこのフィリピンまで航海していたことのほうが私は驚異的と思うのだが、世界史はヨーロッパ中心に廻る。

スペインは得意の中継貿易のアジア拠点が欲しかった。そこで派遣したのがバスク人で当時としては大柄な180cmの大男Miguel Lopez Legazpi。まず、フィリピンに着いた場所は、ルソン島東部の一番端っこ。太平洋戦争中、日本兵が‘フィリピンの富士山’と言ったマヨン山が見えたことだろう。現在、その端っこには‘LEGAZPI’ CITYという都市がある。ここから、南に向かい、サンスクリット語のSugbuが語源のCEBUへ。まずは、マゼランの仇を取り、CEBUを制圧。この時55歳。年も年だし、一部資料によれば、心臓病だったということから、部下2人ゴイテイと自身の孫サルセードにマニラ制圧を命令。スペイン側の記録によれば、着いたマニラ湾のすぐ近くにキャンプを張った。これが、後々のスペイン人街、そして現在でもスペインのコロニアル風建築が残るスペイン人街跡地のイントラムロス(‘壁の内側’という意味)である。現在でもイントラムロスから200mほど海岸側に歩くと客船が泊まるような港、バースになっている。ガントリークレーンも稼働中だ。

その後、ムスリムの原住民と戦になる。この戦争がフィリピンでのスペインとムスリムの300年続く戦の歴史の始まりである。近代化・組織化されたスペインにしてみれば、組織化されていない原住民など、敵ではない。わずか3週間ほどで制圧。半年後にレガスピがマニラに着、初代フィリピン総督となった。

当時のManilaには中国、日本の絹織物や金が集まっていた。その交換時に使用されたのが南米産の銀(銀貨)。そのため、南米(特にペルーやエクアドル、ボリビアなど、当時銀山が多かった国)のスペイン語ではお金のことを、Dineroも使用されるが、「Plata(銀)」と言うことが多い。中国製品で意外と高く売買されていたのは、武器に転用可能な「火薬」だったという。まったく、スペイン人は何人殺せば気が済むのか・・・香辛料(特にナツメグ)はインドネシアから集められ、平均レートとして、銀2kgとナツメグ1kgが交換されていた。重要な交易品のMANTON DE CHINO(中国の大判の絹織物、スカーフ)の名は、スペインの歴史の教科書にも登場する。日本製でもMANTON DE CHINO と呼ばれていた。Manilaは当時の中継貿易の拠点 FREEPORT(現在でいうならシンガポールや香港)の役目を果たしていたのだ。この中継貿易が後々スペインの下落につながるのだが、当時は知る由もない。金があるうちに、金属の鋳造、火薬の製造やシルク生産の技術力をフィリピンで磨いておけば、現在の世界一の出稼ぎ国 フィリピンの現状は変わったものになったはずだ。当時は金が動いており、一種のバブル状態だった。しかし悲しいかな…人は良い時も悪い時も、今しか見ないものだ。



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いやー、疲れた。

能登島 かきがら米の新米の収穫祭。
photo:01



盛況の内に終了。

疲れたんで、今日は、ヨーロッパのサッカーサッカーをチェックして寝ます。


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