Midjourneyには、いつも英語でプロンプトを入れている。
それが当たり前だと思っていた。

 

でもある日、ふと日本語で入れてみた。

「ビールを飲んで読書をしている初老の男。隣には黒のラブラドールが寝て老人に寄り添っている。」

 

 

すると、生成されたのは日本人の男性だった。

 

試しに、まったく同じ文章を英語にしてみた。

今度は白人の男性。
 

 

さらにスワヒリ語にしてみると、黒人の男性になった。

黒のラブラドールという指示なのに、なぜか白いラブラドールになっている。

 

面白くなって、いろいろな言語で試してみた。

 

すると、その言語に対応した文化や雰囲気をまとったアートが次々に出てくる。

中には、
「初老の男」や「ビール」「犬」といったモチーフ自体が
主役ではなくなっているようなアートもあった。

 

ヘブライ語。犬はいなくなり、なぜか赤ワインになっている。

 

イヌイットの言葉。オオカミ?

 

アボリジニの言葉。もはや何の絵なのか分からない。


 

ここで、はっとした。

 

私たちは、

「世界を見てから言語化している」
つもりでいる。

 

でも実際は、
言語が先にあって、見える世界を決めている
のではないか。

 

だから言語を変えると、
同じ現実を見ているはずなのに、
見えてくる輪郭が変わる。

 

思い返してみると、
僕が大学でアメリカにいた頃は、英語で考えていた。

 

日本に帰国してから、
英語で考えるときと、日本語で考えるときでは、
思考の進み方や、結論の出し方が違うことに気がついた。

 

英語で考えると、
物事を分解して、構造で捉えようとする。

 

日本語で考えると、
前後の文脈や、人との関係性、
「言葉にしきれない部分」まで含めて考えている。

 

どちらが正しい、という話ではない。

 

ただ、
言語を変えるというのは、レンズを変えること
なのだと思う。

 

同じ景色を見ているつもりでも、
どのレンズを通して見るかで、
世界はまったく違う表情を見せる。

 

いつも、自分の感覚は正しいと思っている。
 

それなのに、
「なんで他人にはわからないんだろう」
そう感じてしまうことがある。

 

同じ文章でも、
文化や背景、使う言語が違うだけで、
これほどアウトプットが変わるのだと、改めて感じた。

 

世界は広い。


そして、自分の見ている世界は、思っている以上にちっぽけだ。

 

幅広い視野を身につけるために、
もっといろんな世界を見てみたい。


相手の文化や背景を理解しようとすることが、
きっとその第一歩なのだと思う。

 

そんなことを考えた一日だった。