今朝、僕は久しぶりに散歩をした。ここ最近、立ち止まる余裕というものをすっかり失っていて、気がつけば毎朝、反射的にデスクに向かう生活が続いていた。
シャワーを浴び、着替え、マンションを出る。行き先は決めない。歩きながら、頭と心に浮かんでくるものを、そのまま通り過ぎさせる。信号の音や、遠くの車の走る気配を聞きながら、ただ歩く。
家族のこと。仕事のこと。社員の生活や、その奥にある気持ち。そうした断片が、順番も脈絡もなく頭をよぎる。でも不思議なことに、歩いているうちに、それらは絡まることなく、少しずつ落ち着いた場所に収まっていく。歩きながら考える時間を、僕は昔から好んでいる。理由はうまく説明できないが、体の中の歯車が静かに噛み合っていく感じがある。
デスクに座ると、「何かをしなければならない」という圧力が、空気のように立ち上がってくる。でも散歩中は、何もできない。パソコンも触れないし、スマートフォンもただの重さに戻る。その無力さが、かえって心を自由にしてくれる。
こういう時間は、たぶん「自分の心にアクセスするための時間」なのだと思う。特別なことは何も起きない。ただ、内側の音が、少し聞き取りやすくなるだけだ。
こうして歩いていると、昔の記憶が、理由もなく浮かび上がってくることがある。
20年近く前、ユダヤ教の教えを紹介した本を読んだ。ユダヤ人は世界的には少数派でありながら、ノーベル賞受賞者や成功した実業家が多い。その背景にある価値観や行動原理を説明している本だった。
その中で、今も僕の記憶に残っているのが「シャバット」という考え方だ。シャバットとは安息日のことなのだが、週に一度、仕事から完全に離れ、新しいことを始めず、遠くへも行かず、ただ静かに過ごす日。酒を控え、読書をし、一週間を振り返る。そのための、あらかじめ用意された時間。
当時の僕は、シャバットを「内省と学びを、生活の中に強制的に組み込むための仕組み」だと受け取った。人は意識しないと、流れ続ける刺激に簡単に飲み込まれてしまう。だからこそ、立ち止まるための装置が必要なのだと感じた。
その本を読み終えた頃、僕は「自分にも、きちんと休息日が必要だ」と思った。忙しさの中にいても、考える時間だけは手放してはいけない、と。
しかしスタートアップを始めてから、そうした余裕を保つことは難しくなった。結果を出さなければならないという焦り。立ち止まった瞬間に、何かを失ってしまうのではないかという怖さ。そうした感情が、知らず知らずのうちに、僕を動かし続けさせていたのだと思う。
振り返れば、その忙しさの正体は、不安だった。忙しくしていないと落ち着かない。頑張り続けていれば、どこかに辿り着けるはずだ、という漠然とした期待。でも現実は、そんなに単純ではない。
経営者にとって本当に必要なのは、手を動かし続けることではなく、大きなパズルをどう組み立てるかを考える時間なのだと、今は思っている。
シャバットを持てなくなる一番の理由は、余裕のなさと焦りだ。「もっと何かをしなければならない」という気持ちが、休むことを許さなくなる。
最近、ブログを書き、EOで内省の時間を意識的につくるようになって、少しずつその感覚が戻ってきた。そしてこの週末、久しぶりに、何にも追われずに過ごす時間ができた。
今朝の散歩で、僕はふとこのシャバットのことを思い出した。
休むことは、サボることではない。立ち止まらなければ見えないものがある。思考を整え、感情を静め、次の一週間を迎えるための、ささやかな準備なのだと思う。
もし今週末、30分だけ立ち止まるとしたら。
一番やらない方がいいのは、たぶん仕事だ。
