今から17年前、私は自分の思考に苦しみ当時のmixiで新潟の曹洞宗東山寺の川上雪担和尚のコミュに、藁にも縋る思いで引き込まれました。

 

「仏はほどけ、ほどけば仏」

 

「仏ほっとけ」

 

「自分とは自縛自縄のはしっくれ」

 

「自分とは一つ、自分で自分を見ることは不可能、自分と思い込んでいる分それは作り物の自分」

 

その言葉は自分の余計な衣が剥がれ落ちるようで、私は坐禅をすることにしました。


雪担老師曰く、

「坐禅はすっちゃかめっちゃかやるのが良いです。」


とにかく、暇さえあれば坐っていました。

通勤中の電車の中、勤務中のパソコン作業をしているフリして、眠りに入る前。。

 

曹洞宗の坐禅は、

「只管打坐 しかんたざ」

ただひたすらに坐るということです。

 

ただ坐るだけ。

 

これが、なかなか難しいのです。

坐っていると、妄想、思考がどんどん出てくる。

 

それでは、ただにならない。

 

妄想、思考を止めようとすると、その止める手が余計になる。

それを止めようとすると、、、堂々巡り。。。

 

諦める他なく、ひたすらに坐る。

 

思考をほっとく、手をつけない、観察しない、

思考や妄想は泡の如く、出ては消え出ては消えていくもの。

 

そうしていると、だんだんと妄想、思考が小さくなってくる。

 

ある時、自宅で座禅をしていたら

突然脳内のドーパミンか何か弾けた感じで、そのまま床にゴロンと倒れてしまった。

歓喜、快楽、ものすごい感覚だった。

 

けど、これではいけないと思い必死で元に戻した。

 

右脳と左脳の垣根をぶち抜いた。


自分と思い込んでいた物は自分ではなかった。

元の木阿弥は、空であり全体であり、歓喜。


全てと繋がっている状態が、ありのままの自分なのだと実体験として確信を得た。


大安心


雪担老師曰く、

「死んで死んで死にきって、する技ぞ良き」

「作り物は壊れる」

「悟りきったら、あとは生活あるのみ」


真正面

 

「只管打坐 しかんたざ」

ただ坐るということに至ったとき、

自分本来に還り、自分とは無く全体であることに気付くに至る。

これは、坐禅から実際に体感できることです。


あちらとこちらの垣根が外れて、出入り自由になる。

仏教とは、本来この事であって難業、苦行は必要ありません。母なる地球からお貸し頂いている、御身体に感謝して大事にしましょう。


生活するには、自分(我)も要ります。しかし、本来の全体である私(仏)を知らなくては、自分という作り物に永遠に振り回される事になってしまう。

 

「邪師は与え、正師は奪う」

私は、正師に出会う事が出来ました。

今でも坐禅を時々しています。

寝付けない時や、思考が邪魔な時など助かります。

 

本来に還る事が自由に出来ると、生活が楽です。

余計なストレスも少なくなります。

 

自然、万象、宇宙との一体感を感じます。

 

自分本来の生き方をしていくのに重要なカギが、

「只管打坐 しかんたざ」にあります。

 

最近では、右脳への注目が集まってきていますね。

坐禅=「只管打坐 しかんたざ」もおすすめです。