2013年 正月に思う。 | ハリー・ヨシダの楽しい終活日記(ハリー爺ちゃん随想集)

ハリー・ヨシダの楽しい終活日記(ハリー爺ちゃん随想集)

もういくつ寝るとあの世かな。
☆剣道 教士7段 、剣道コーチ
☆Harry's フォトスタジオ枚方 代表
☆催眠誘導心理カウンセラー
☆貿易アカデミー 講師
☆財務分析セミナー講師
☆元 関西外語専門学校 講師
☆元 JETRO認定貿易アドバイザー


2013年 正月に思う。


1956年3月生まれの私は、今年の3月で、57歳になります。数え歳で58歳。


これまでの57年を振り返ると、走馬灯のように、思い出のシーンが、つぎつぎに、頭の中を駆け抜けていきます。


きのうは、交野山の麓の源氏の滝へ向かって約1時間歩きました。

子供の頃、自転車で行ったり、中学の時は、友達数人とテントを担いでキャンプに行った場所です。

82歳の母が一人で住む実家から、その道をたどって歩いてみました。

遠くに見えた交野山の山頂の織姫の岩は今もかわらず、山の峰の上に鎮座していました。


母宅のマンションは10階にあり、そのベランダからその山頂の景色は遠くに見えていました。

しかし、歩き始めると、そこへ向かう道は、かつての景色とは変わってしまっていました。


40年近い年月を経て、新しい高架道路や、家々が建ち、町の風景は変わってしまっていました。


私は、浦島太郎になったような気持ちで、遠くに見える山頂の方角に向かって歩きました。


歩き続け一時間を過ぎる頃やっと到着した源氏の滝は、私の子供の頃からの記憶と同じ姿で私を出迎えてくれました。


あのころと同じように滝の水が落ちていました。何百年も前から同じ景色なのでしょう。


滝の上に向かって苔むした階段を上がると交野山山頂の織姫の岩への道が続きます。


そのあたりの小さな土手で、むかし、私の3人の子供たちとロープを伝って降りたときの情景が、その同じ場所に重なりました。

今はもう3人とも成人してしまっています。 


夕方、弟と合う約束があり、山頂へは登らずにそこから、家に戻ろうと足を家路に向けたとき、粉雪がハラハラと桜の花が風で散り舞うように降りかかり始めました。


静かな森に包まれた滝の滝壺、滝の水音を感じながら、粉雪がやさしく風に舞う空を見上げました。

左右の森の樹木に挟まれた空は、ところどころ青空も見える曇りぞら。 


かつて、同じ様にここでこの寒風の空を見上げていた自分に重なりました。


あのころの私は、山登りに夢中になっていた19歳。


登山靴にピッケル。雪と氷に閉ざされた厳冬のアルプスへ思いを馳せていました。


私が山登りの魅力をしったのは、この小さな交野山のキャンプにその原点がありました。

ここから、日本アルプス、海外の高峰への登山を夢見たのでした。


やがて、私は3000m級の山々へ登り、ヨーロッパアルプスの4000mの山頂にも立ちました。

厳冬期の北アルプスで、垂直の岩壁登攀も体験しました。すさまじい雪崩で危機一髪でたすかったり、落石などで なんども死にかけたこともあります。


しかし、それ以上に、感動を超える、すばらしい山の景色の想い出が限りなく湧き出てきました。


ハリー・ヨシダ ワクワク人生開発ナビゲーターのブログ

<北アルプスにて撮影>:

いくつもの情景が走馬灯のごとく思い出され、しばらくそこに立ち尽くしてしまい、時間があっという間に過ぎていきました。


次の日も、また歩いてみました。

枚方公園を経て、淀川に出て、川岸のサイクリングロードに沿って歩き、枚方市へ行き、家路につきました。約3時間の徒歩の旅でした。

57年の年月によって道も周辺の建物も大きく変わってしまっていました。

でも、ところどころ、子供の頃から馴染んできた景色の一端がのこっているのを発見すると、とても懐かしく感じ、その度に当時の情景や、その時の自分の気持ちが蘇ってきました。とてもここちのよい想い出でで、小学校、中学校、高校時代の自分、今は亡き父、母、友、兄弟、良き時代の家族の想い出とも重なるのでした。


ところで、

2013年2月に、剣道の錬士の称号の審査を受けることにしました。

塚越剣友会の町田先生から、受けてみませんかとお声をかけていただき、思いもかけないことで戸惑いましたが、直ぐに受審を決心し、町田先生に申し込みの労をとっていただくことにしました。


振り返ると、剣道に興味を持ったのは、中学の2年生の時でした。それまで水泳部に入ってみたりしましたが、小柄で非力な私には、練習が面白くなく、指導らしい指導もしてもらえず、ただ泳いでいるだけで、やりがいも感じなかったですが、


ある日、体育館で見た剣道部の練習で見た同級生たちの姿がとてもかっこよく、惹かれて行きました。


まったく初めての私は、へたくそで、からだも中1生よりも小さく、小学生か?と笑われ、だれにも相手にされない部員でした。

それでも竹刀だけはマジメに振っていました。


家では、父が、木の枝に向かって飛び込み面を打つ所作を教えてくれました。「こうやってな、メーンって、飛び込むんや」とやって見せてくれました。父は剣道部ではなかったのですが、戦時下の学校で教練として、全員が剣道を練習させられたので知っていたようです。


ある日、父が、スポーツ用品店のミズノで剣道防具を買って来てくれました。私は、亀田製の黒い小手、紺色の道着、黒いふちどりの面をイメージしていたのですが、父が買ってきたのは、白い小手、白い縁取りの面、白に黒糸での抜い込み模様の道着と、まったくイメージと違う迫力のない剣道具でした。ちょっとがっかりでしたが、仕方ありません。


買ってきた日に、それを身につけた私を家の裏の公園に立たせて父は写真を撮りました。


結局、その防具を高校卒業まで使い、高校三年生の時剣道初段を取りました。高校の三年間は剣道部で一番小さく、体力もなかった私は、練習が辛くて大変でしたが、どういう分けか3年間を剣道三昧で過ごしました。 きつくて辛い練習だったのになぜか、やめられませんでした。


大学では、山登りに夢中になり、剣道から離れてしまいましたが、竹刀だけはいつも部屋の何処かにありました。


やがて、剣道の防具をつけて練習するようになったのは、仕事で台湾に駐在し、小学生の子供が日本人学校で剣道部に入ったことがきっかけでした。

日本人学校の剣道部の指導をされていたのは台湾人の劉世堅先生でした。


劉先生が、ヨシダさんもむかしやっていたのであれば、またやってみませんか? 総栄剣道倶楽部が、そばにあるから来てみませんか?と誘ってくださったのが御縁でした。


そこでは、沢山の剣道愛好家が集まり、熱心に練習されていました。多くの師範や、高段位の先生方が指導されていて、台湾大学や他の場所からも練習に参加される方が遠路来られるなど、台湾では由緒ある剣道クラブでした。


そこで、劉先生に「攻めて、攻めて、攻めて、メン!」の真っ直ぐな剣道を学び、周師範から、日本刀で切り落とすイメージで振る竹刀の振り方を学びました。


気温の高い台湾での剣道練習は、ハワイで剣道具を身につけるのと同じで、めちゃくちゃ暑く、気が遠くなるような暑さでしたが、それでも皆熱心に練習されるので、私もそれに引っ張られるように練習しました。楽しい思い出です。スポーツに国境は無いと思いました。


日本に戻った私は、そこで偶然住むことになった蕨市で、またも剣道人生での運命の出会いをすることになりました。なんと、家から歩いて10分くらいのところで剣道クラブがあることを知ったのです。それが塚越剣友会でした。そこに居られたのが、町田純先生、敏子先生でした。佐伯先生と町田先生がお二人で早朝練習を黙々とされていた時代でした。


剣道の練習をする場所とすばらしい指導者が、「さあ、やりましょう!」というように私に与えられたのです。


町田先生、佐伯先生、土屋先生と台湾に行き、剣道倶楽部をいくつか回ったのですが、そこで、台湾の先生方が皆おっしゃったのが、町田純先生(七段)の剣道が「ピャオリャン」だという言葉でした。

英語で言うとBeautifulです。


多くの先生が右と左の足を大きく前後に開いて構えてしまうのに対して、町田先生の左足は、常に右足の横に付いています。この小幅では、相手に押されると不安定になりよろめいてしまうと想像してしまいますが、実際に町田先生が、その姿勢のまま、激しくぶつかってくる相手を受け止めてよろめいたり、後退したのは見たことがありません。


ぶつかっても押し返されるのは相手の方でした。


 私自身、純先生にぶつかって、ぶつかり勝ったことは未だに一度もありません。不思議ですが、そうなのです。


そのほか、塚越剣友会の先生方はとても正しい剣道をされるので、私は不快な思いをしたことがありません。これも町田先生ほか、会員の皆さんの品格のゆえと感謝に絶えません。


このような環境で、剣道の練習を続けることができ、気づくと、15年以上塚越剣友会で練習に参加させていただき、気づくと六段にまで合格してしまい、今度は錬士の称号への挑戦まで出来るまでになった自分がいます。


私が中学生の時、剣道防具を買ってきた時の父も、まさか、あのひ弱な息子がいつか剣道六段にまでなるとは思っていなかったでしょう。

あの世から見ている父もさぞ驚いているでしょう。

私自身が驚いているのですから。


そういう私も、かつてわが父が辿った60歳が近づき、人生の残りの時間の使い方を真剣に考えるようになりました。すでに人生の残り時間の秒読みが始まっています。


いままで私が経験してきたこと、学んだことを、私一人の体の中に入れたまま墓へ持って入っても何の意味もありません。


「武士道とは死ぬことと見つけたり。」


『いつでも、笑って腹をカッさばいて死ねること。』


とぶっそうないいまわしですが、言い換えれば、「いつ死んでもいいように、今日一日を悔いなく、満足して死ねるように生きよ、」ということと私は理解しています。


そして、今、私は、人生を65歳で終わりと考えています。


もし、そこでまだ命があれば、それはまた天からの贈り物。その時考えることとして、

いつまでも命があるとは思わず、まずは、そこを我が天命天寿として、その時までの限られたいのちの時間を精一杯駆け抜け、その間に、いつ死しても悔いのない生き方をしようと、こころに決めております。


いままで多くの方が私におしえてくださったこと、与えてくださった御厚情、恩、得られた経験、知識、我が悟りを、残りの時間で次の世代に手渡していきたいと願っています。

また、ひとりでも多くの人の役に立つこと、喜びを与えること、幸せにすることを我が請願として掲げて生き抜くことにしました。


禅仏教では、生き様という言葉はなく、死に様のみあり、といいます。


死んだとき、はじめて、その人の人生の価値、意味がわかるというのです。


私が望む「死に様」とは、次のような死に様です。


アメリカ先住民のアメリカインディアンの言葉です。


『インディアンの正しい死に方を、君はしっているか。

知りたければ、語ろう。

人が生まれてくるとき、人は泣きなながら生まれてくる。しかし、それを見ている周りのものは、皆笑顔だ。

お前が死ぬとき、お前は、笑顔で死んでいく。

しかし、

それを見ている周りのものは皆、泣く。』


私が死ぬときは、周りの人に ありがとう、ありがとうといって笑顔で死ぬ。


そして、周りの人が、「あなたに出会えてよかった、ありがとう」と泣く。


そういう人生で幕を閉じたいと願う。


武士道とは、死ぬことと見つけたり。


2013年正月に思う。


ハリー


イメージビデオKENDO http://www.youtube.com/watch?v=0lgquzHy1rE