私が死にたいと思ったとき(その1)
私が、初めて、死んでしまいたいと感じ、死に場所を探し、死に方をあれこれ考え始めたのは、19歳の時でした。
大学受験を乗り越え、華の大学生活が始まったとき、私は死ぬことを考えました。なぜでしょうか?
富士山の樹海の中に行こうか、どこかの山の中に行こうか、海外のどこかで野垂れ死にしようかと、そればかり考え始めました。
薬で死ぬことも考えました。
第二次大戦で、多くの兵隊や、一般市民、婦女子が沖縄戦で青酸カリで自殺したのを知っていましたので、青酸カリの入手方法を研究もしました。それを入れる服用カプセルは入手していました。どうやって入手したのか、覚えていないのですが、机の引き出しに入れてありました。あとは、そこに、何を入れるかだけでした。
なぜ、そんなことになったのでしょうか。
今から振り返りますと、生きることの目的が見えなくなっていたのですね。
それより遡ること、一年前の18歳のとき、初めて大学入試を受験しました。
高校時代の私は、昼間の授業中は、机にうっつぷして寝て、夕方の剣道クラブの時間になると目を覚まして、練習に参加。へとへとになって家に帰ると、飯食って、バタン・キューと爆睡。この毎日。 中間テストや、期末テストは、剣道部で鍛えた集中力で、約1週間ほど徹夜の一夜漬けで、頭に詰め込んで、テストを受ける。このパターンでした。
やりたくもない教科書の丸暗記は、鼻血が出るような、苦行でした。
「俺には、剣道で鍛えた、根性がある!」 と、ど根性で、くそ丸暗記をすることが勉強でした。
「大学に行くには、いい成績を取っておかねばならない!」という義務感と将来への不安が背中を押していたようです。
それが、将来、自分のやりたいこと、夢につながるのかといった希望は、なにもなかったと振り返ります。そんなストイックな苦行の結果、卒業時には、500人中、トップ4位に入り、その高校では四天王の一人になったのです。結果は出しました。
大学を戦争で諦めることになった父は、そこそこ大きな工場で働いていました。
その父が、私にいつもこういっていました。
「俺は、戦争と家の事情で、大学へ進学できなかった。高卒っていうのは、つまらんぞ。 今、俺がどんなに頑張っていても、才能があっても、学歴で給料が違うんだ。会社に、自分よりあとから入ってきた大学卒業生の若者が、あれよ、あれよと出世して、自分より上の役職につき、いい給料をもらえるのに、高卒の自分は、まったく上に上がれず、工場の工員として、かれらに学歴の違いだけで顎で使われるんや。はっきりいって、仕事は俺の方ができるのに、と思うんやが。学歴が無いだけで悔しい思いをせにゃならんのや。」
「ええか、おまえは、大学だけは出ておけ。大学だけは、なんとかして、出れるように稼いで、出してやるから。」と、いつも言っておりました。
私は、それは事実だとは思っていました。「学歴がなければ、いい生活はできないんだ。」と。
しかし、私が行きたかったのは、美術大学か、心理学関係の学校でした。
幼稚園から、中学になるまで、毎週土曜日に、近所のお絵かき教室に通っていました。その時間が、私にとっては、一番楽しい時間でした。
精神科の医者になりたいなあとも思っていました。幼稚園、小学校、中学と、私は、一人で妄想するのが好きでした。皆と野球をすることに興味がなく、絵をとうして、内なる世界、精神世界を感じていました。内面との対話を結構、こどものころからしており、私の書いた詩が朝日新聞に載ったこともありました。
大学の進路について、父に、「僕は美術大学を受験したいんだ。 それか、心理学を専攻したいだ。」と言ったとき、父はまゆをしかめて、諭すように、自分の経験を語り、「絵で生活出来ると思うか?甘いで。 心理学? そんなもんで、喰えるか?アホ!世間知らずなんや、おまえは。 ホンマに食っていく自信はあるか?ないやろ? ええか、喰うていかないかんのや、生きていかないかんのや。俺にもカネはない。お前は自分で自分の食いブチをかせがにゃいかんのや、わかるか?
ええか、現実に目を向けろ。経営学部とか、就職に直結する学部へ行け。悪いことは言わん。」と悟すのでした。
それも一理ありますよね。
当時の私には、反論はできなかったです。
今の私ならば、心理学、NLP、スタンフォード式起業家養成プログラム、夢の実現方法などを知っているので、違う方向を示すことができるのですが、当時の私にはそれ以上の考えは出ませんでした。
父の言う通り、就職のため、なんとか生きていくための、ちょっとでも給料を人並みに稼ぐための資格、パスポートとして大学卒業証書を手に入れるための、高校生活、勉強になっていきました。
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