100人の人生大逆転ストーリー Vol.3 笑顔の魁コンサル 北野裕一さん(前編) | マインドアンチエイジング~すべての人々に漲る若さを!

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マインドアンチエイジング・ジャパン理事長 人財育成・組織変革コンサルタント 千代鶴直愛 公式ブログ

 

 私の両親は再々婚。父は訪問販売のトップセールスマン。母は中学卒業後スナックや夜の歓楽街でホステスをやりながら全国を転々としていました。私が幼少期には昼も夜も一人で行動していました。

 

 

父はほとんど家に帰ることがありませんでしたし、母は夕方6時から夜中3時まで働いており、昼間は大半寝ていました。そんな中、まだ4歳だった私は、ひとり街で遊んで過ごしていました。そんな生活が小学校2年生まで続きました。

 

 

その当時はあまり貧乏を感じたことはありませんでしたが、小学1年生のときに父母が離婚し、私は母方に引き取られることになり、その後の母の再婚を期に貧乏生活が始まります。

 

 

母の再婚相手の男性(今の父)は、結婚をする前から借金を繰り返し、母の働くクラブにお金を注ぎ込んでいました。私のことを思ってか母との再婚には相当悩んだようです。母は、今の父の作った借金を返済するのに一生懸命だったのを覚えています。

 

 

今の父は村の有名な鉄工所の長男で、過保護に育ったいわゆるお坊ちゃんでした。その家にはどこよりも早くカラーテレビがあり、近所の人たちはテレビを見に集まったそうです。父はそんな高度経済成長期の中で裕福に育ったようです。

 

 

父は、母と再婚した後しばらくは、自分に子どもがいることを隠していましたが、ある日突然息子を連れてきて、それからは一緒に暮らすことになりました。私達が父方の親戚の集まる田舎に集まると、大人たちは私たちを受け入れてくれましたが、従兄弟たちは受け入れてくれませんでした。

 

 

私たち兄弟は喧嘩が絶えませんでした。私と母が弟をいじめると、弟は父に告げ口をするようになりました。

 

 

ある時、弟はいきなり「死ぬ!」と言い出し、壁に打ってあった釘に針金を巻いて、それで首吊りを試みたことがありました。その時、母は「やれるもんならやってみなさい!」と一喝しました。私自身も、5歳か6歳の頃、母の前で自殺を訴えたり、家出することを訴えたりしたことが何度かありましたが、そのたびに、母から出てきた言葉は、「やれるもんならやってみなさい!」でした。

 

 

私たちは兄弟喧嘩もよくしましたが、二人きりでいる時は、普通の血の繋がりのある兄弟よりも仲良く遊んでいました。弟が、私にいじめられたと訴えなくなった一つのエピソードがあります。それは私が小学校3年生のときです。「お父さんに言いつけてやる」と言う弟に対して、「お父さんに嘘の報告をするなら、俺がお前の前で今死んでやる!」と包丁を自分の腹に突きつけたのです。それを見た弟は「やめて!」と泣きじゃくりました。兄弟の絆はそれ以来ずっと続いています。

 

 

その頃の貧乏を象徴する出来事があります。小学校3年生のある朝、私は「おねしょ」をしてしまったのですが、母から「ガス代も水道代もかかるから」と言われシャワーも浴びさせてもらえず、下着だけを着替えて学校に行くことになったのです。学校に行くと、友達から「臭い」「臭い」と言われ続け、挙句の果てには担任の先生からもいじめられてしまったのです。その時のやるせなさは今でも心に残っていますが、同時に、人の言葉がどれだけ人を傷つけるかも知りました。

 

 

おもちゃを買ってもらえないし、お小遣いももらえない私達が考えることは万引きでした。弟と一緒に町を歩いていると、弟は、突然指をさして「兄ちゃんこれ欲しくない?」と聞くのです。私は「欲しいけど買えないじゃん」と言うと、次の日、弟は「盗んできた」と笑顔で言うのです。私が「欲しい」と言ったものは、弟は平然と盗んできました。弟は度胸だけは人一倍でした。

 

 

そんな一連の行動を見ていた同級生が、その現場を目撃し先生に告げたことがありました。私たちは先生から呼び出され、追求されました。女性担任でしたが、悪事に対してことごとく許さない先生でした。本来なら同級生からいじめられるはずですが、おそらく担任の先生がそれを見逃さなかったおかげで、私はいじめられることはありませんでした。

 

 

そんな先生のお陰もあって、私は6年生に上がる頃には、クラスでも人気のひょうきん者になっていました。そこから中学3年生を卒業するまで有意義に過ごすことができたのは、楽しい人生を送れたターニングポイントだったかもしれません。

 

 

(後編に続く)