第 30 話  (古)淡路島(あはじしま) | 日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀の原文は漢文ですが、例えば「倭」字は「ゐ(漢語)、わ(和読)、い(和語)、やまと(当て字)」など
様々な内容に使われましたが、後世の「読み下し文」はすべて「やまと」と振り仮名されました。
「千年の誤読」の始まりです。それを正しているのは原文です。

前話へ  次話へ

 

第 30 話  (古)淡路島(あはじしま)

 

 淡路島は「イザナギ・イザナミの島産み譚」で最初に産んだ島とされています。その島を中心に大八島を生んだのだから、結果的に淡路島は列島の中心、瀬戸内海にあるとされ、皆納得してきました。

しかし、この解釈には様々な不審があります。これを解く、これが今回のテーマです。

 

● 第一の不審 「淡路島は二並び」 応神紀の歌

応神天皇が淡路島の歌を詠っています。応神天皇が「難波の大隅宮」から里帰りする妃を見送り詠った歌で、意訳すると、

「淡路島は二並びだ、小豆島(あずきしま)も二並びだ、(仲の)良い島々だなあ、二並びで愛し合った自分と吉備に里帰りした兄媛(応神妃)を引き離したのは誰だ(里帰りを許した自分だ)」とあります

 この歌は従来「淡路島と小豆島(しょうどしま)は二並びだ、仲の良い島だ」と解釈されてきました。しかし、これは誤読です。原文は「淡路島・小豆島はそれぞれが二並びの島々だ」とあります(原文は注1)。瀬戸内海の現淡路島は大きすぎて二並びではありえません。「淡路島と小豆島」も大きさに大差があり、これも二並びではありません。これが第一の不審です。

では、「応神紀の歌の二並びの淡路島」(現淡路島とは別)はどこか? それは対の「二並びの小豆島」からわかります。

 

●   古事記の「小豆島(あずきしま)」は二並び

「小豆島」は記紀にそれぞれ一回ずつ出ます。書紀は前節の応神歌ですが、古事記の例は「イザナギの島生み譚第三段」です

その要旨は「イザナギが淡路島や大八島を生みを終えて(オノゴロシマに帰る際に)ついでに生んだ六島は吉備兒嶋①・小豆島(あずきじま)②・大島③・女島(ひめしま)④・知訶島(ちかのしま)⑤・両児島(ふたごしま)⑥だ」とあります(番号は下図)。

これら六島は「関門海峡北西に散在する六島」に比定されます(下図、検証は注2)。

 

古事記「島生み譚第三段、ついでに生んだ六島」

 

この内、古事記の小豆島(あずきしま)は「現馬島(あずきの形)と現大島の二つ」をまとめて一つに数えています。「小豆島は二並び」と合います。以上、古事記の小豆島は関門海峡北西です。これを「(古)小豆島」とします。

 

●   淡路島はどこか?

では、応神歌の淡路島はどこか? 

応神歌で並記されている「淡路島と小豆島」が「島生み譚」で並記されている「淡路島と小豆島」と解釈するのが妥当、その「小豆島」は関門海峡付近(前節)、とわかりましたから、応神歌の淡路島は「島生み譚の淡路島」であって、それは関門海峡付近と考えられます。これを「(古)淡路島」としましょう。それはどこか?、、、

 

● 仁徳の歌_

古事記にも淡路島を詠った「仁徳の歌」があります。その要旨は「難波の先を廻って淡道島で国見をすれば、淡島、オノゴロシマが見える」という国見歌です 。その後文には「そこから(島々を)伝って吉備国に行った」とあります(原文は注3)。

この歌で並記されている「淡路島・淡島・オノゴロシマ」が「島生み譚」に並記されている「オノゴロシマ・淡島・淡路島」であると解釈するのが妥当です。そして、それらは関門海峡付近と前述しました。

 

● 「オノゴロシマ」は現「沖の島」

仁徳歌の「オノゴロシマ」はもちろん「島生み譚」の冒頭です。島生みが一段落してイザナギ・イザナミが(「オノゴロシマ」への帰途に)についでに生んだ六島が関門海峡から北西に向かっていますから、「オノゴロシマ」はこの六島の先の絶海孤島、沖ノ島しかありません。晴れた日には関門海峡からも遠望できます(参照 注3、更に詳しくは別サイトこちら)。

 

オノゴロシマ(六島の先、絶海の孤島)は 沖ノ島

 

●  「(古)淡路島」は現「宗像大島」

仁徳歌に「淡路島から小豆島が見える、オノゴロシマが見える」とあります。応神歌の「小豆島」は「(古)小豆島、関門海峡北西」とわかりましたからその付近の「二並び」の島を探すと、前述した六島の④⑤がありますが、「(古)淡路島」は先に生まれているからこれらではありません。更に「二並び」を探すと、「宗像大島」と二並びの「地島」があります。

この島からは仁徳歌にあるように「(古)小豆島二並び」「オノゴロシマ」「遠賀川河口洲(淡島?、根拠はこちら)」が見えます

しかしその後、オノゴロシマ(沖ノ島沖津宮)・(古)淡路島(大島中津宮)は倭国王家の墓陵として秘所扱いとなったことで、「倭国不記載方針」の記紀では「どこか」は曖昧にされ、後世地名移植された瀬戸内海淡路島だけが残ったのです(後述)。

 

●   (古)難波・(古)吉備国

ついでに仁徳歌の「吉備国」について付言します。この「吉備国」は神武紀に出てきます。「神武は吉備国に三年、船を揃え、東征に出て(すぐ)難波碕に至り、ひと月後に(淀川口を)遡流上りて河内国に至った」とあります。この難波は(古)吉備国(彦島)出立直後ですから大阪難波ではありません、関門海峡です。これを(古)難波と呼ぶことにします。難波は古い順に「関門海峡」「摂津難波」「周防灘(豊国難波)」「玄界灘(筑紫難波(難波江など)」などがありました。

「吉備」の古事記初出は「島生み譚第三段」です。そこには、

「吉備児島(きびのこじま)、亦の名建日方別(たけひかたわけ)」とあります。その比定島は、①現在名「竹の子島(たけのこじま)」(下関彦島(ひこしま)の北西隣)、現在名の由来は「亦の名」に由来する「建児島(たけのこじま)」でしょう。この「吉備兒島」は極めて小さく前節の「吉備国」は向かいの「伊予二名島」(彦島)の北辺だと考えられます。これを「(古)吉備国」と呼ぶことにします。後世この「吉備国」は兵庫に地名移植されました。

 

 

●   後世の地名移植

(古)淡路島がいつ頃瀬戸内海淡路島に地名移植されたか不明です。恐らく九州からの何波かの東征、「神武・崇神・景行・応神・仁徳の東征」の時に九州地名が東方に少しずつ、多くの地名移植(九州 → 東方各地)が行われ、次第に定着したと考えられ、最初は元地と先地が併存し、倭国滅亡(680~701年)で九州元名が力を失い、或いは大和王権によって禁止されるなどして東方の移植名だけが残ったと考えられます。

「淡路島」もその一例ですが、次の「伊予二名島」元は彦島です。古事記に「伊予二名島の四面を成す伊予国・土佐国・讃岐国・粟国の土佐国は穴門(長門)の近く」(古事記)とあり、「穴門(長門)の近くの島」とは「彦島」(下関市)しかありません。「穴門の引島(ひくしま、彦島)」(仲哀紀)も参考になります。これらから、「伊予二名島」は関門海峡「彦島」に比定されます(第8話)(第13話注2)。そうであれば、「四国の伊予・土左・讃岐・阿波はここからの地名移植」と解釈できます。

 

 応神歌と仁徳歌の関連地

 

●  応神・仁徳がこれら島々を詠んだ理由

応神・仁徳は大和天皇としてのみ記紀は伝えますが、倭国王族の一面も持ち合わせていました。

なぜなら、倭国には、倭国王(ホアカリ系政事王)と内部にニニギ系祭事王族(聖地管理王)が居て、倭国の聖地オノゴロシマ(=沖ノ島)*、島生み(国生み)第一の淡路島、(宗像大島)、第二の伊予二名島(彦島、アマテラスの誕生島)などアマテラス系の祭事王(管理責任王)でもあったのです。神武が東征時に残したニニギ系一族です。その一族から崇神・景行・応神・仁徳・継体・上宮王が輩出したと考えます(筆者説、第36話参照)。

  

卑弥呼倭国の一員であった九州ホアカリ系倭国は、台与系倭国を再統一しました。神武系(兄弟国ニニギ系)・崇神系を支援する形で東征を進め、西征(九州再統一)では神武系・景行/仲哀系の協力得て、台与倭国に代わって列島統一を果たしました(台与から100年後の360年頃)。

 

その後の半島征戦では倭国軍/日本軍(東方諸国軍)のまとめ役に倭国内ニニギ系王族であった応神・仁徳が任じられ、それに成功して東方諸国の抑え役として大和国(神武ニニギ系)の天皇に送り込まれました(ニニギ五世孫?)。

仁徳は後半大和天皇として河内に東征しますが、上掲の仁徳歌はまだ倭国祭事王を兼ねていた時代の国見歌でしょう。だからこれら「島々」は「倭国祭事王族であるニニギ系主要支配地・管理地で、「(古)吉備国」もそうだったのです。

  

●  まとめ

以上から、応神・仁徳の歌の「(古)淡路島」は「宗像大島(宗像中津宮)」とすることができます。

通説(岡山吉備に残る多くの関連伝承・関連地名)は記紀以後の推量比定ですが、千年の重みがありますから、筆者もその重みを否定するものではありません。一説、Another Story として提案する次第です。

  

●  追補   淡島  

「淡島」は「島生み譚前記」の「生み損ないの島」ですが、上掲地図の「淡島?」は筆者推定地です。根拠はこちら注4

 

 

第30話     了

 

   前話へ   ページトップへ

以下、第30話    注

_

 

 

●注1 淡路島  応神の歌    (本文へ戻る

  応神紀二十二年「天皇、難波に幸して大隅宮にまします、、、時に妃兄媛(あにひめ、吉備臣の妹)侍り、、、(里の)父母を恋ふ情あり、、、嘆く、、、天皇、、、(里帰りを)許す、、、兄媛、大津より発船して往きぬ、天皇髙殿に居て兄媛が船を望みて歌いて曰く、

あはじしま、いやふたならび、あずきしま いやふたならび よろしきしましま たかたされあらちし きびなるいも あいみつるも

   後文要旨  天皇、淡路島・吉備・小豆島に遊ぶ、吉備臣饗を奉ず、よりて吉備国を割いてその子等に封ず」

 

意訳すると、応神天皇は周防難波の大隅宮から妃の兄媛を見送り詠った

「淡路島は二並びだ、小豆島(あずきしま)も二並びだ、二並びで愛し合った自分と(吉備に里帰りした)兄媛を引き離したのは誰だ(許した自分だ)」とあります。

 

「吉備国」と後文にあり、応神の時代は国名移植前ですから、これは「(古)吉備国」です。伊予二名島(彦島)の北隣の現「吉備児島」でしょう(上図、注2)。

                                   

「二並び」について、定説は「淡路島と小豆島(しょうどしま)は並んだ二つの島、二並びだ、だから瀬戸内海だ」と解釈されてきました。

しかし、この歌は「淡路島が二並び、小豆島も二並び」であって、定説解釈は誤解です 。

 

「小豆島二並び」は、古事記の「島生み譚三段目六島」*  の「(古)小豆島(上図あずき島、現 馬島と大島」です。古事記はこの二並びを一つに数えています。

 

* 島生み譚三段目 古事記のみにある「大八島生みの次の小六島生み譚=関門海峡北西の六島」 詳しくは別サイトこちら、戻るには開いたサイトを閉じる。

 

「オノゴロシマ」への帰途に生んだ(奪った)六島ですから(古事記)、「オノゴロシマ」はこの六島の先の絶海孤島、沖ノ島しかありません。晴れた日には関門海峡からも遠望できます。参照 注3、更に詳しくは別サイトこちら

 

「淡路島二並び」とはどこでしょう。「小豆島二並び」と対で詠われ、仁徳の歌では「淡路島からオノゴロシマ(沖ノ島、宗像沖津宮がある)が見える」とあります。そのような島「(古)淡路島」は現宗像大島(宗像中津宮がある、上図中央下)しかありません。隣の小島(ちしと二並びです。

 

即ち「(古)淡路島は宗像大島」の可能性があるのです。(筆者新説)。

_

 

 

●注2 古事記島生み譚第三段  (本文に戻る

古事記の「島生み譚」は三段からなる。

(1) 第一段は「淤能碁呂嶋(おのごろしま)(以下オノゴロシマ)の誕生」。 要約すると「天つ神がイザナギ・イザナミに島生みを命じたので、二神は沼矛(ぬぼこ)を用いて拠点となるオノゴロシマを創った」とある。いかにも「空想的神話」で比定地論議の対象外とするのが常識。

 

(2) 第二段は「大八島(おおやしま、列島)」の誕生。島生み神話の主要部で、列島各島と考えられている。通説では淡路島・四国(伊予二名島)・九州(筑紫島)・隠岐・壱岐・対馬・佐渡・本州(豊秋津島)に比定する。いかにも「現実に合わせた後知恵話」とされる。

 

(3) 第三段は、「イザナギ・イザナミが島生み巡りから還る時に六島を生んだ」とある。六島とは「吉備兒嶋・小豆島(あずきじま)・大島・女島(ひめしま)・知訶島(ちかのしま)・両児島(ふたごしま)」とある。これら六島の比定島は従来から種々提案されている。通説では六島バラバラに西日本各地の小島に比定されている。

しかし、この六島を生む直前の島生み譚第二譚(2)の拠点が伊予二名島(彦島小戸◎)であることから、吉備兒島(別名建日方別(たけひかたわけ)、現竹の子島(たけのこじま、彦島の北西隣)か。

「古事記の六島」と比定島候補「関門海峡北西の六島、次図 ①~⑥」を対応させて検討する。原文にある「亦の名」は貴重なヒントとなる。

古事記島生み譚三段目六島

 

(1) 「吉備兒島(きびのこじま)、亦の名建日方別(たけひかたわけ)」の候補: ①現在名「竹の子島(たけのこじま)」(下関彦島(ひこしま)の北西隣)、現在名の由来は「亦の名」に由来する「建児島(たけのこじま)」と考えられる。

 

(2) 次「小豆島(あずきじま)」の候補: ②現在名「六連島(むつれじま、島形があずき形)」(東)と「馬島(うましま)」(西)とが並んでいる。((1)の北西隣)。応神紀の歌に「あずきしま、いやふたならび」と歌われ二つで一つと数える。

 

(3) 次「大島(おほじま)、亦の名大多麻流別(おおたまるわけ)」の候補: ③現在名「藍島(あいのしま)」((2)の北西隣)、「仲哀紀」にある「阿閉(あへ)島」をこれに比定する説がある(中世~江戸期考証、(6)の文献に同じ)。古代に「おほ~」から「あへ~」に変化し、それ以後現在名「あい~」につながった可能性がある。

 

(4) 次「女島(ひめしま)」の候補: ④現在名「女島(めしま)」((3)の北西隣)」、同名だから否定のしようがない。

 

(5) 次「知訶島(ちかのしま)、亦の名天之忍男(あめのおしお)」の候補: ⑤現在名「男島(おしま)」(女島(4)の隣)、「亦の名」の「男」に由来すると言える。(4)と「二並び」でもあるが、既に生まれている「淡路島」ではない。

 

(6) 次「両児島(ふたごしま)」の候補: ⑥現在名「蓋井島(ふたおいしま)」((1)の北西)、二つの峰をもち、比定地候補としてふさわしい。明治期以前にこの島が「古事記六島生み神話の両児島だ」という考証があった。

 

以上、古事記の「六島」と「関門海峡北西の島々」は全体として数・地形・順序共に整合し、すべての島名が現在名と整合する点を持つ。これほどの整合性は先に挙げた他候補には見られず、「最有力な比定島候補」とするに足るレベルと考える。

 

 

 

 

 

 

●注3 古事記「仁徳の歌」   (本文に戻る

   古事記 仁徳記  「淡道嶋(あはじしま)に坐して、遥に望みて歌ひて曰く

おしてるや、なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば、あはしま、おのごろしま、あじまさのしまもみゆ、さきつしまみゆ  (「おしてるや」は「なには(難波)」にかかる枕詞とされます。以下、歌ですから万葉仮名表記です。)

   後続文 乃ち其の嶋より伝いて、吉備国に幸行す」(古事記仁徳記)

 

これを要すれば「難波の先を廻って淡道島で国見をすれば、淡島、オノゴロシマ、などが見える」という国見歌です 。

 

 

「難波」は「なみはや」が語源とされ(神武紀)、その様な地は多いので、国名・地名移植でなくとも(普通名詞的に)、少なくも三か所が記紀に出て来ます。「摂津難波」・「周防灘の難波」・「玄界灘の難波(博多)」です。 

(1) 「摂津難波」(神武紀神功紀孝徳紀の難波宮など多数)。

(2) 「周防灘の難波(広域)」(大隅嶋(企救半島東側か)姫島(大分)がある難波(安閑紀二年)、難波大隅宮(応神崩御地、応神紀)、難波高津宮(仁徳即位地、企救半島東側か、仁徳紀)など)

(3) 「玄界灘の難波(博多)」(難波祝津宮(欽明紀540年)、難波江(仏像投棄譚、欽明紀552年)、難波津(舒明紀四年)など)

https://wakoku701.jp/100.html#●178   (戻る

_

 

ここの「難波」は「周防灘の難波」です。なぜなら、この歌の後文にある「吉備国」は仁徳の時代(400年頃)ですから、国名移植*(600年~)以前で、(古)吉備国(関門海峡 彦島北隣)です。それに近い難波は周防難波です。

* 国名移植は地名移植より遅い、と考えます。前話参照。

 

仁徳は周防灘に面した企救半島の高津宮から出て、難波の先(企救半島北端)から関門海峡を経て西側の島々を国見して回りました。地図で見ましょう。

  

 応神歌と仁徳歌の関連地

 

 

 

 

 

注2  吉備国   (戻る

この歌の後文にある「(古)吉備国」は瀬戸内海の「吉備国」ではありません。洲生み第一譚で生んだ古吉備は洲生み譚第三段のオノゴロシマに帰る際についでに生んだ(奪った)六島の最初です。島は七つあるのに六島といわれるのは、その内の二番目(現馬島)と三番目(現大島)が二並びで一つに数えるからです(古事記)。(戻る

_

 

 

 

注3   オノゴロシマ(淤能碁呂島=沖ノ島)     戻る

記紀神話の「島生み譚」は神話と史実の混ぜ合わせですが、史実としては「良田無き対馬海族の交易業(魏志倭人伝)から弥生稲作への転業事業、その為の国生み(良田獲得侵略)」と捉えることができます。

アマテラスの孫(天孫、ホアカリ(政事王)とニニギ(祭事王))による北九州建国(卑弥呼を共立する一倭諸国)が卑弥呼倭国を再統一した後は、沖ノ島は倭国王家の墓陵として神聖な秘陵として、また宗像大島はイザナギ系の初の良田獲得基地(記念島、聖地)としてニニギ系祭事王(~応神仁徳)が管理したと考えられます。(戻る

_

 

 

注4 淡島  推測地候補       戻る

では、「あはしま」はどこでしょう。島生み譚前記の「生み損ねた島」(記紀)です。島生みを「国生み(=入植侵略地)」という本居宣長解釈に従えば、「侵略し損ねた島」です。それを筆者なりに推測したのが地図の淡島です。

 

ここは、遠賀川河口の小島群と平地が混在し(泡のような小島群か)、良田獲得目標の「葦原中つ国(現小倉市足原中津口か)」への前線基地となり得る地だった、とイザナギらがんだようです。

 

獲得に失敗したのは、弥生農先住民が強かったからか、遠賀川の大氾濫で土砂で小島周辺が埋まって海族の前線基地の機能が失われたかわかりませんが、淡路島から見えますから、仁徳歌の「あはしま」の一つの候補地と考えます。

 

のちに、九州倭国の祖であるアマテラスの孫ホアカリ/物部氏が遠賀川を溯り、その中流域に住み着きました(先代旧事本紀)。淡島の失敗(河口は洪水の危険がある)に学んだからかもしれません。

戻る

 

 

 

第 30 話  注   了

 

   前話へ  ページトップへ