第 15 話  一図で解る「倭国の系譜」 | 日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀の原文は漢文ですが、例えば「倭」字は「ゐ(漢語)、わ(和読)、い(和語)、やまと(当て字)」など
様々な内容に使われましたが、後世の「読み下し文」はすべて「やまと」と振り仮名されました。
「千年の誤読」の始まりです。それを正しているのは原文です。

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第 15 話  一図で解る 「倭国の系譜」

 

 

 

今回は「一図」(3) 、「統一倭国の始まり(80年頃)から倭国大乱(160~180年頃)、卑弥呼系の倭国(170~270年頃)、それを再統一したホアカリ系倭国(360~680年頃)」を俯瞰します。   (「一図 全体」はこちら

 

 

 

 

 

「倭国の系譜」(赤丸は下記赤丸と連動)

 

● 倭国の始まり

後漢書や魏志倭人伝を検証すると次のように整理されます(図左上から)。

 

「西暦80年頃、倭国は男王によって統一され、107年に倭国王帥升(すいしょう?)が遣使したとあり、統一は150年~160年まで続いたようです。ここまでは、半島倭国でしょう(後漢との接点)。その後大乱があり20年前後続いた(160年~180年)」(後漢書)となります。この大乱は半島倭国の列島移動も含む「混沌」です。

 

次に登場するのが「卑弥呼を共立して九州で再統一され、台与がそれを継いだ」(魏志倭人伝)です。266年までは海外史書(晋書)で確認できます。

 

最初の統一王と卑弥呼の王統は恐らく同じではありませんから「断絶」していますが、国名としては「倭国」が継続しています。これは中国の呼称、即ち「他称」です。以後、これが慣行となります。

その後が問題です。

 

● ホアカリ倭国

 国内史料ですが「ホアカリ/アマツマラ物部氏による天降り(北九州遠賀川域侵略、先代旧事本紀)とスサノヲからの国譲り(記紀)」は「ホアカリの建国」意味します。

 これは「卑弥呼による倭国大乱の終息(180年頃、魏志倭人伝)」の一部をなすと考えられます。ホアカリは「卑弥呼を共立する倭諸国」の有力な一員になったようです(推定)。以下、これをホアカリ(系)倭国と呼ばせていただきます。

 すくなくも台与遣晋使(266年)まではホアカリ倭国は台与倭国の一員でしょう。

 

● 「倭の五王」

その後は宋書「倭の五王」(413~478年)まで不詳でした。そこで、図の最下方「物部尾輿」から検証して行きます。

 

 「物部尾輿の祖はアマツマラ(天津麻良)」、その主筋はホアカリです(先代旧事本紀)。従って、「物部尾輿の主筋はホアカリ」と考えられます

その根拠は先代旧事本紀の検証です同書は「ホアカリは物部の主筋」と記しながら「ホアカリはニギハヤヒの別名(同一神)」なる「偽説」を加えて、「倭国不記載・ホアカリ不記載」の記紀に従っているふりをして禁書を免れています。そこを読み解けば得られる解釈です。検証の詳細はこちらです。

 

 物部尾輿の主筋は倭国王です。その根拠は記紀の「仏教論争」です。そこには「大和王権が「磐井の乱征伐」後、「九州遷都」すると(第1話)、物部尾輿が半島情勢で助言をし、それを評価されて大和王権の大連に任命されました(欽明紀554年)。その尾輿はそれに先立って某国の大連であったことを示す記事があります(安閑紀534年)。九州の某国の大連とは「九州倭国の大連」しかあり得ません。「物部尾輿の主筋は倭国王である」が導き出されます。

から「物部尾輿の主筋はホアカリ系倭国王」が導出されるのです。

 

 「宋書倭の五王」はホアカリ系

物部尾輿の主筋(ホアカリ系倭国王)が判明しましたが、そこから遡って数代前が「倭の五王」の最後倭王武です。この数代の間に王統が代わっていません。なぜなら倭王武の代で宋が滅亡し、後ろ盾を失った倭国は滅亡寸前になりましたが(任那滅失・磐井の乱)、継体が「磐井の乱を征伐」し、「任那回復活動を主導」したから、倭国は滅亡を免れたのです。尾輿から遡って数代も倭国王統は代わっていません。

従って、「宋書倭の五王はホアカリ系」です。

 

● ホアカリ系倭国の再統一は320~360年

「倭の五王がホアカリ系」と解った今、「台与系はいつホアカリ系に代わったか」を検証しましょう。

「倭の五王」の最後に「倭王武の上表文」(478年)が載っていて、「それ以前の倭国」についてわずかながら情報があります。「台与の倭国から宋書倭の五王まで」はこの文章から推測するしかないのです。

 

「、、、封国(倭国)は偏遠にして、藩を外に作(な)す、、、東は毛人を征すること五五国、西は衆夷を服すること六六国、渡りて海北を平らぐること九五国、、、」(宋書)

 

  まず「東征55国」とあります。倭国遣宋使は「列島総国」として外交したのだから「神武東征」⑧’も「崇神の四道将軍派遣」⑧”も「ヤマトタケルの毛人東征」⑧”’も「みな倭国の東征軍の一部だ」と説明したに違いありません。神武東征(260年頃~)~四道将軍(~320年頃)まで、とすれば「東征55国」は60年間。この期間の「西」では、まだ卑弥呼・台与系が共立されていて、共立した側の倭の五王の祖も西では動けず東征に集中した、とも考えられます。

 

  次に「西征66国」とあります。台与系の共立倭国が倒れたか弱体化して、ホアカリ倭国も遠慮なく九州統一に乗り出した、と考えられます。景行・ヤマトタケル・仲哀/神功が熊襲征伐(九州統一)に協力しています。ホアカリ倭国に東方の神武系(ニニギ系、兄弟国)が協力することは納得できます。

 

 仲哀・神功の熊襲征伐が完了すると海外征戦に移るから、それが九州統一戦の完了だったことが確認できます(仲哀紀362年)。

 

「西征」は恐らく320年(四道将軍後)~360年(仲哀天皇の熊襲征伐完了)の40年間。台与の後の列島統一は「東」「西」の順に直線的に進んだ、その間の「台与 → 五王」以外の王朝交代・王権交代・王統交代の余地はない、と考えられます。なぜなら、海外遣使(例えば遣東晋使)を出せていないことがそれを証しているからです

 

この後に「渡りて海北を平らぐること95国」(上表文)とあります。「内 → 外」の順です。即ち、「倭国女王台与・台与系の後、100年かかって倭の五王の祖が倭国を再統一した可能性が高い」と検証できました。詳論はこちら

 

以上で「物部尾輿以前の倭国」については

「半島倭国」「九州卑弥呼・台与の倭国」「ホアカリ系倭の五王」「物部尾輿の主筋、ホアカリ系倭国」まで解明できました。

 

「物部尾輿以後の倭国」については第19話で確認しますが、ホアカリ系倭国が「白村江敗戦・倭国滅亡」まで続くことに疑問の余地はありません。

 

これで「倭国の系譜」が建国(西暦80年頃)から滅亡(680年頃、正式には701年)まで解明できた、と考えますが、いかがでしょうか?

 

 

 

 

第15話    了

 

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●注1   一図全体    (戻る

 

  (戻る

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●注2  物部尾輿の主筋はホアカリ系    (戻る

 

下図系図から、物部尾輿(左下)の祖はアマツマラ、その主筋はホアカリです。

 

物部氏系図 (筆者による修正、点線は物部支族)

 

ただし、この系図は「記紀と先代旧事本紀を基にした安本美典作成の系図」(次図)を基に筆者が検証で修正したものです。  

その論証は筆者別サイト https://wakoku701.jp/S4.html

 

9世紀の「先代旧事本紀」は総論「天神本紀」で上図のように「物部氏の祖はアマツマラ、その主筋はホアカリ」としています。しかし、これでは記紀の「倭国不記載・ホアカリ不記載・九州物部氏不記載」に反しますから、大和王権の「禁書」(続日本紀708年)の対象にされかねません。

 

そこで同書は各論の「天孫本紀」では「ホアカリは(記紀の)ニギハヤヒの別名(同一神)」という「偽説」を加えて「ホアカリ記載に見えるのは記紀と同じニギハヤヒ記述」と言い訳しているのです。その偽説を入れた下図(安本図)では「物部尾輿は神武系物部氏の子孫」となって「ホアカリ」が消えています。「偽説」を加えて「偽書」「禁書」を逃れているのです。

 

「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」安本美典 2009年

系図6「先代旧事本紀巻五所載の物部氏系譜」より

 

以上から、ここでは「物部尾輿の主筋はホアカリ系」とします。  (戻る

 

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●注3  「仏教論争」    (戻る

欽明紀~敏達紀には仏教論争譚が多い。これを正しく理解することは、倭国と大和の関係を理解する上で極めて重要である。従来、仏教伝来の年次については三候補あり、どれが真かで議論されてきた。

 

①   定説では欽明紀552年に「百済王からの仏像・経典などの贈り物に欽明天皇が『これほどの妙法は聞いたことが無い』と歓喜踊躍した」とあるのが「仏教公伝」とされている。「公伝」とするのは「それ以前にも私的な導入はあったかもしれない」と、別説に対抗する予防線を張っている。

 

②   別説とは「元興寺縁起538年条に『仏法創めて渡る』とある」とするものだが、後世の加筆などあるようで、信頼性で疑問がある、とされている。

 

③   更に、「九州年号に『僧聴』(536年~)があるから536年以前だ」とする説があるが、九州年号それ自身の後世偽作説があったりして議論が多い。

 

これら議論に対し、筆者は「三候補ともある意味で正しい。ただ内容と当事者が異なる」と解釈する。以下説明する。

 

(1) 仏教初伝は九州年号「僧聴」(536-549)以前と考えられる。九州年号は倭国の年号で、倭国は南朝に朝貢してきた。従って、この仏教は南朝仏教であろう。

 

(2)  倭国に北朝仏教が初伝したのは538年である。

 

元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳

「大倭国仏法、創(はじ)めて、、、(宣化)天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰仕え奉るとき、治天下七年歳次干戊午(538年)十二月より度(わた)り来る、百済国聖明王の時、太子像並びに灌仏の器一具及び説仏起書一巻篋(はこ)を渡し、、、」

 

百済は472年以来北魏に朝貢しているから、その仏教は北朝仏教と考えられる。百済王が献上した仏像の贈り先「大倭国」は倭国自称名である(雄略紀に同じ、前章)。倭国には既に仏法が伝わっているから正しくは「北朝仏法初伝」であるが「創めて本当の仏法(北朝仏教)が渡った」という元興寺の立場の表現であろう。「(宣化)天皇の御世」とあるのは年次を表すだけで、内容は倭国朝廷の話である。蘇我稲目は倭国朝廷の大臣である。その根拠は、次項で解るようにこの時点では大和朝廷は仏法に関心を持ってはいない。宣化天皇はほとんど九州には来ず、物部麁鹿火後継者が代理として百済と交渉に当たり、百済王の贈り物を倭国王に仲介したのだろう(前々節参照)。

 

倭国王は南朝仏教は知っていたが、新興北朝仏教には慎重だったようだ。続く記述を要約すると、

 

元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳 つづき(要約)

「天皇が群臣に諮ったところ餘臣等神道派が反対し、独り蘇我稲目が勧めたので、天皇は試みとして稲目にだけ崇仏を許した。その後、排仏派物部氏らと崇仏派蘇我氏の論争が続く。稻目大臣が死去(570年)すると餘臣等は天皇の許しを得て堂舎を燒き、仏像・経教を難波江(筑前)に流した」

 

と続く。それを再興したのが元興寺だという。倭国内には南朝仏教派(衰退)・神道派(物部氏ら、勢力挽回)・蘇我稲目ら北朝仏教導入派(新興)があったと考えられる。

 

538年の時点で物部麁鹿火が百済仏教の仲介はしても、大和はまだ仏教に無関心だったようだ。一方、570年(仏像を難波江に流す)時点では次項のように大和は北朝仏教伝来・受入れ後だから、排仏派ではない。排仏を許したのは南朝仏教の倭国王である。従って、ここの「天皇」は倭国王のことである。上掲資材帳の「天皇」は日本書紀に合わせて書換えたものだろう、日本書紀と整合する。

 

(3)  大和朝廷に仏教(北朝仏教)が公伝したのは552年である。

欽明紀552年

「百済聖明王、、、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干・経論若干巻を献ずる、、、天皇聞きおわり、歓喜踊躍す、使者に詔して云う、朕は昔より、未だ曾って是の如き微妙の法を聞くを得ず、、、然れども朕自ら決めず、すなわち群臣に歴問して曰く、、、蘇我大臣稲目宿禰奏して曰く、(以下崇仏論)、、、物部大連尾輿、中臣連鎌子、同じく奏して曰く、(以下排仏論)、、、天皇曰く、宜しく情願人稲目宿禰に付けて試しに礼拝せしむ」

 

敏達紀585年

「、、、この後国に疫気流行し、、、物部大連尾輿・中臣連鎌子、奏して曰く、、、天皇曰く、奏する通りにせよと、、、仏像を難波の堀江に流棄し、伽藍に火をかけた」

 

欽明天皇は任那再興を指揮するためしばしば九州に来た(例えば「難波祝津宮に幸す」欽明紀540年)。百済王の献上品(552年)は538年と違って欽明天皇宛であろう。欽明天皇は「歓喜踊躍」した。欽明天皇は仏教を大和に持ち帰っている。それが大和の仏教初伝と伝えられている。前掲文の前半「大和への仏教公伝は552年」は史実と考えられる。

 

(4) 欽明紀552年の後半「天皇が蘇我稲目に限って崇仏を許す(伽藍縁起では538年頃)」、敏達紀585年の「天皇は物部尾輿等の排仏上奏を許す(伽藍縁起では570年頃)」は前々項の伽藍縁起と同じで、倭国朝廷の事件である。「倭国朝廷内の蘇我氏(北朝仏教)・物部氏(神道)の主導権争いとその上にたつ倭国王(南朝仏教)の三つ巴の論争」と理解すると納得が行く。倭国王は南朝仏教派であって北朝仏教に「歓喜踊躍」するはずがない。後年(590年頃)の多利思北孤や上宮王ですら南朝仏教を支持し続けている(上宮王は後に北朝仏教に転向、第八章)。倭国は結局北朝仏教を受け入れなかったようだ。敏達紀の「天皇が蘇我稲目に限って崇仏を許す」「天皇は物部尾輿等の排仏上奏を許す」の「天皇」は「倭国王」と考えられる。このことが「蘇我稲目大臣、物部尾輿もまた倭国朝廷大臣」の傍証ともなっている。

 

(5)  では、なぜ日本書紀は「倭国朝廷の仏教論争」を大和朝廷の論争のごとく記述しているのか。それは記述の目的が「仏教論争」ではなく、「物部氏・蘇我氏の争い」だからだ。この観点では「倭国王」と「大和天皇」は共通の立場だ。「物部氏の専横を阻止すべく蘇我氏を引き立てる倭国王」と、「倭国朝廷に参画した結果、河内物部氏(麁鹿火系)を九州物部氏(本流)に取り込まれて、対抗上蘇我氏に近づく大和天皇」の立場が近いため、倭国王と大和天皇が共闘している。「倭国朝廷群臣の物部守屋討伐に敏達の皇子達が参加」が具体例だ。さらにこれを伏線として「敏達・推古・孝徳王権を担ぐ蘇我氏の隆盛」(次章)へと続く。そこで倭国史料を一部流用して日本書紀に載せているようだ。捏造でも盗作でもない。ただ、「天王(倭国王)」と「天皇(または大王、大和)」を両方「天皇」と表記している。

 

日本書紀は「倭国不記載」を原則としている、と述べた。それにもかかわらずここだけ「天王(倭国王)」の言動が「天皇」として描かれている、とするのはご都合主義の解釈、と非難されそうだ。しかし、遠かった倭国朝廷と大和朝廷がこの時代にあまりに接近したため同一立場の問題に限って「倭国王」を「天皇」と表記して「倭国不記載」に目をつぶった日本書紀の苦肉の編集と思われ、安閑紀~敏達紀で特に頻出する。これについては次章で詳述する。 「倭国不記載」は必然的に「九州物部氏不記載」を伴う。なぜ例外的に物部尾輿~物部守屋が記載されているか、は同じ理由と考えられる。

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●注4 ホアカリ系の倭国再統一  詳論 (戻る

「九州卑弥呼の倭国」は少なくも台与の遣晋使(晋書 266年)までは九州に存続したと考えられるが、その後は宋書「倭の五王」(413~478年)まで不詳だった。記紀にも殆ど情報が無い。「倭国不記載の方針」があったからだと思われる。

 

しかし、宋書「倭の五王」の最後に「倭王武の上表文」(478年)が載っていて、「それ以前の倭国」についてわずかながら情報がある。

「、、、封国(倭国)は偏遠にして、藩を外に作(な)す、、、東は毛人を征すること五五国、西は衆夷を服すること六六国、渡りて海北を平らぐること九五国、、、」宋書478年  倭王武上表文

ここでは、この順序に注目する。「東」「西」「海外」の順である。従来「海外」が後であろうことは常識としても、「東」「西」の順序は並記の意味で、時間順の意味が有るとは考えられてこなかった。しかし、九州倭国は列島の西であるから、「地元に近い西を征するのが先」が別の常識であろう。卑弥呼自身、「倭国大乱」を収束させた後、狗奴国戦に向かっている。九州内、つまり「西」が先なのである。ところが、仲哀紀には「(倭国・大和連合軍は)西の熊襲征伐が完了すると、次は海外征戦が目標」となっている。「西」 → 「海外」の順である。そうであれば倭国の征戦は記紀に依っても宋書倭王武上表文に依っても「東 → 西 → 海外」の順とみるべきであろう。

 

まず「東征55国」とある。倭国遣宋使は「総国」として外交したのだから「神武東征」も「崇神の四道将軍派遣」も「ヤマトタケルの毛人東征」も「みな倭国の東征軍の一部だ」と説明したに違いない。神武東征(260年頃~)~四道将軍(~320年頃)まで、とすれば「東征55国」は60年間。この期間の「西」では、まだ卑弥呼・台与系が共立されていて、共立した側の倭の五王の祖も西では動けず東征に集中した、とも考えられる。

 

次に「西征66国」が来る。具体的には熊襲征伐~九州統一であろう。景行・ヤマトタケル・仲哀/神功が九州統一に協力している。仲哀・神功の熊襲征伐が完了すると海外征戦に移るから、それが九州統一戦の完了だったことが確認できる。この西征で協力があることが遡(さかのぼ)って「東の征戦でも倭国と大和王権の協力があった」ことを示唆している。「西征」は恐らく320年(四道将軍後)~360年(仲哀天皇の熊襲征伐完了)の40年間。それ程手こずったという程ではない。東の征戦で力を蓄えた効果だろう。「東西征戦完了」はここまで100年かかっている(台与266年~熊襲征伐360年)。決して短くはないが、台与の後の列島統一は「東」「西」の順に直線的に進んだ、その間の「台与 → 五王」以外の王朝交代・王権交代・王統交代の余地はない、と考えられる。海外遣使(例えば遣東晋使)を出せていないことがそれを証している。

 

この後に「渡りて海北を平らぐること95国」(上表文)が来る。倭国/神功の新羅征戦に始まるこの「海外征戦」は倭国王の主導(広開土王碑)と神功・応神・仁徳の協力(記紀)で、約40年かかって新羅制圧(405年)・仁徳東征(410年頃、記紀)・倭王珍の「倭国王」叙位(宋書 425年)で完成する。この「倭の五王」は「倭王武の上表文」(宋書478年)に結びつく。即ち、「倭国女王台与・台与系の後、倭の五王の祖が倭国を再統一した可能性が高い」と検証した。

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第15話  注  了

 

 

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