第1話 大和王権の九州遷都 70年 ?!  聞いたこと無い  ほんとの話 | 日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀の原文は漢文ですが、例えば「倭」字は「ゐ(漢語)、わ(和読)、い(和語)、やまと(当て字)」など
様々な内容に使われましたが、後世の「読み下し文」はすべて「やまと」と振り仮名されました。
「千年の誤読」の始まりです。それを正しているのは原文です。

 

第 1 話  大和王権の九州遷都 70年 ?  聞いたこと無い話    

(5/14 更新)    第2話へ  第3話

 

「えっ? 聞いたこと無い」 と聞こえます

 

日本書紀には 「 大倭国に遷都す 」 (安閑紀534年)という記事があります。この「大倭」は日本書紀には「16例」あり、半数は「やまと」、半数は「九州」の意味で使われています。ここの「大倭国」は九州です。即ち「九州に遷都」したのです。以来70年間、「都は九州」にありました。しかし、歴史家も教科書もそうとは教えてきませんでした。

 

その理由は簡単です原文(漢文)をそのまま読める人が少なく、「和読法(振り仮名・訓読・返り点など)」(こちらを参照)が開発された奈良時代以降 、「大倭16例のすべて」に「やまと」 と振り仮名されたことで(だから半数は誤訓)、「この70年間も都は大和だった」と読まれ(誤読)、定説化されてしまったからです。これは日本書紀原文(漢文)の責任ではありません。

 

「大倭」の読み方は歴史的に変化し、ここを正しく和読するなら 「大倭(たい)」 と読み 「九州倭国への遷都 」 でした。のちに「俀(たい、イ妥)」とも書きました(隋書600年)。「大倭(やまと)」と読ませたのは天武です。

 

●  誤訓の直接原因  天武の改(当て)字

倭国が滅亡して残された唯一王権として、天武天皇は倭国の「大倭(たいゐ、漢語国号、たいい、和語国号)」を継承する一方、和読としては「倭」字を「倭(やまと)」、「大倭(おおやまと)」、のちに「大倭(やまと)」と書かせ、読ませたのです(680~685年頃、「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993年)。

日本書紀(720年)が出た頃には既に30年間、和読法が確立した頃は100年間、奈良人は振り仮名「大倭(やまと)」を使っていましたから、疑問を持つ余地は無かったのでしょう。日本書紀には他に難訓が山のようにありましたから。

 

●  「大倭16例」 とは?_

「大倭」16例①~⑯はすべて「大倭(やまと)」と振り仮名されていますが、それぞれを内容から検証しました。この検証には「内容から推測する読み方」、「地名遺存」、「天武の改(当て)字」「それ以前への遡及使用」も考慮しています。

その詳細は「こちら」に示し、ここでは結論だけをまとめますと、

「大倭=九州倭国・つくし」は8例(①③④⑥⑦⑧⑩⑪、この内漢語系は③④⑥)、

「大倭=やまと」は他の8例②⑤⑨⑫⑬⑭⑮⑯です。

結論として、16例すべてに「大倭(やまと)」と振り仮名するのは正しくありません。この誤訓(あるいは誤読誘導)の結果「大和王権の九州遷都」という正しい認識が失われ、日本書紀の後世解釈が史実から遊離し「不整合だらけ」となる結果を招いています。日本書紀の誤読が正されなければならない所以(ゆえん)です。正しているのは「振り仮名以前の日本書紀原文」です。

 

●  安閑の九州遷都 その目的・期間(70年)_

16例の検証結論は「⑦ (大和王権)安閑天皇の大倭遷都は九州」です。

では、なぜ大和王権が九州遷都などしたのでしょうか? その答えは「倭国の弱体化」です。

 

宋が滅亡し、倭国は列島宗主権の根拠を失い、半島では「任那」を失い、九州では「筑紫君磐井の乱」が起こりました__

倭国はやむなく継体天皇に救援を要請し、継体/物部麁鹿火(あらかひ)が討伐に成功しました。倭国は内政立て直しを図るため、「外交宗主権を大和移譲」したのです。なぜなら、 大和は倭国の弟国(兄弟国)でしたから。

 

そこで、継体~欽明は九州を拠点に物部尾輿(倭国大連(おおむらじ))を協力させ、「任那回復戦略」に注力しました。更に磐井遺領を収奪した大和王権は「九州豊国に遷都」し、大和では味わえない文化の恩恵に浴したのです。その後の実態はしかし、物部麁鹿火の外交戦略(任那回復)は失敗し、蘇我氏(大和系九州豪族)と物部氏(倭国系九州物部氏)が二王権を舞台に騒乱し(仏教論争・大和天皇継嗣問題)、大和王権(敏達・崇峻・用明・推古)は「九州の一お飾り大王」のような存在になってしまいました__

 

●  倭国遣隋使と推古の九州遷都終了

大和主導の「任那回復戦略」が失敗する一方、倭国は着々と体制固めに成功しました。それを象徴するのが遣隋使(600・607年年)です。遣主は倭国王、推古派遣の小野妹子は随行使(607年)です。これは「倭国が列島宗主権を取り戻した」ことを意味します。その結果、外交宗主権を失った大和王権は九州遷都の大義名分を失い、推古天皇が(大和の)小墾田宮へ帰還遷都したのです(推古紀603年)。

 

以上、「大和王権の九州遷都」は「倭国に代わって大和が外交宗主権を実行する為」であり、それを倭国に返上したので「推古の大和帰還遷都」となったのです

これが「大和王権の九州遷都、70年」でした。この史実が後世の「誤訓」によって「千年の誤読」となり、日本古代史の混迷を作り出しました。

 

● 一図で解かる「日本古代史」

「千年の(振り仮名)誤読」から解放されると、日本古代史のかすみがパッと晴れ、「日本古代史の整合性ある全体像」が一図ににまとめることができます。興味のある方はクリックしてください。

 

   以上です。

 

 

 

 第1話   了  

 

 

   次回は、第2話  「大和王権の九州遷都時期に出てくる『飛鳥』は九州飛鳥だ」を提案します。 また、お付き合いください。       

             Wakoku701  

 

 

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以下 [注] 

 

 

 

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●注1    和読法       (戻る

日本書紀の原文は漢文で書かれているが、そのまま読める人は少なく、日本書紀(720年)が出された後に始まる「和読法(振り仮名・訓読・返り点など)」が奈良~平安時代に確定した。同一語句でも時代と共に内容も読み方も変わることがありますが、幾つかで確認された振り仮名を全書一律に適用するなどで、部分的には不適切な振り仮名が生じているようです。そこには後世の「知識不足からくる誤訓(ごくん)」もあるが、「意図的・政治的な振り仮名(いわば偽訓)」もある。誤読の一因はこのような「後世(奈良・平安時代)の誤った振り仮名・誤訓・偽訓」がある。日本書紀原文の責任ではない。

 

日本書紀の代表的な解説書の岩波書店版の例であるが、この書は「訓読・振り仮名」について冒頭の「訓読解説」で

「奈良時代~1000年頃の確からしい最古の訓読文献に従う」 としている。

即ち、岩波版は「訓読」に関する限り「史実(600年頃)の検証よりも、また日本書紀(~750年頃)の編集意図よりも、後世(1000年頃)の訓読文献の再現」を優先しているのである。

 

従って、「最古の訓読」が「誤訓」か「偽訓」であった場合でもそれが「定説」とされた、と考えられる。しかし、筆者の立場は違う。    (戻る

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●注2   「大倭」の読み方      (戻る

「大倭」の読み方は[漢語読み]「和読み」「和語化」「通称」などさまざまな読み方があったようだ。

(1)「大倭(たいゐ)」 漢語読み 

「倭国」は半島征戦で成果を挙げると半島で自尊称国名「大倭国」を使い、新羅・百済にも使わせました(神功紀六二年条390年頃、初出)。 外交漢語ですから読みは「大倭(たいゐ)」です。漢語読みは頻度は高くないが、どの時代にも出てくる。前節の神功紀の他に、応神紀・雄略紀に百済書引用の漢語「大倭」がある。内容は「総国・宗主国=九州倭国」である。

 

ただし、遣宋使(425~478年)は「倭国」を使って自尊称「大倭」は使っていません。宋は倭国の自尊称を許さなかったからでしょう。

 

同じ理由で、遣隋使(600年)は「大倭(たい)国」を避けて佳字改号して「俀(イ妥、たい)国」として国書を送っています。この時代まで「大倭」を和読では「たい」と読んだと考える根拠です。遣隋使は他にも和語を外交で多用しています(阿毎多利思北孤など)。  

 

(2)「大倭(たいい)」「大倭(たい)」 和語読み  

百済書引用の漢語が当時どのように和語よみされたか、日本書紀の後代振り仮名ですべて「やまと」とされているからわからなくなっている。だが、「大倭(たいゐ)」の佳字として「大委(たいい)」があることが正倉院御物「法華義疏写本」に「大委国上宮王」の署名があることから和読で「大倭(たいい)」があったことが推測される。

また、隋書に「倭国が『俀(たい、イ妥)』と自称した」とあることから「大倭(たいい、漢語和読)」がしだいに「大倭(たい)」と和読とされたことが推測される。即ち、「大倭(たいゐ、漢語) → 大倭(たいい、和読) → 大倭(たい、和語・和読) → 俀(イ妥、たい、漢語・和語)」の流れがあったと考えられる。

 

(3)「大倭(つくし)」  通称(推測)

総国「大倭(たいゐ)」の和読として「大倭(たい)」があったと述べたが、これは外交用語・官庁用語であり常用には違和感があり、地方からみれば「大倭」も「筑紫」も同義語だろうから、通称として「大倭(つくし)」と訓読(同義和語読み)された可能性があると考える。その根拠の一つは後年の「大倭(やまと)」の振り仮名である。総国「大倭国」を国都国名「つくし」と読み習わした前例があったからこそ天武の総国「大倭国」を新国都国「やまと」と読ませる発想が生まれた、と推測される。

 

安閑元年「大倭国勾金橋に遷都す」、次代宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうえ)陵に葬る」とある。「勾金橋」は豊国(現福岡県香春町勾金)、陵も同一表記であるから豊国であろう。これら「大倭」も同様の理由から「大倭(つくし)」であろう。

 

(4) 「大倭(おおやまと)」  紀には無し 古事記のみ

  この読み方は日本書紀には出て来ない。古事記に総国名「大倭」として数回でてくる。天武は倭国滅亡後、倭国の自称総国名「大倭国」を継承したが、和語総国名として「大倭(おおやまと)」と読ませた。その根拠は古事記国生み譚の「大倭豊秋津島」と日本書紀国生み譚の「大日本豊秋津洲」及びこれの読み方注「日本、此れを耶麻騰(やまと)という」との比較からそのように解析される。古事記の「大倭」(13か所)はすべて「大倭(おおやまと)」と和読して良い(検証は →こちら )。

 

(5) 「大倭(やまと)」   日本書紀 後世振り仮名

天武の和語総国名としての「大倭(おおやまと)」(古事記)は外交用語であって、国内殆ど使われなかったので、天武は国都国名「倭(やまと)」に二字美称冠字した「「大倭(やまと)」への改字令を出した(683~685年、坂田説)。例えばこの頃「倭(やまと)直」から「大倭(やまと)直」への改姓がある。遡及表記にも 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」、孝徳紀645年の「欽明天皇十三年(552年)に百済王が仏法を我が大倭に伝えた」とある。いずれも内容的に「大和」に関する例で、計8例ある。これらは「やまと」に新当て字表記「大倭」を指定したのだから、「やまと」と振り仮名しても内容と一致し、誤読ではない。次注16例中8例、②⑤⑨⑫⑬⑭⑮⑯ が該当する。全て天武以降の用例である。内②⑤は天武以前の事績に遡及表記している。

 

結論を繰り返すと(1)(2) は「大倭=九州」で8例ある(①③④⑥⑦⑧⑩⑪)。(3) (4) は「大倭=大和」で8例ある。

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●注3   「大倭」の16例  解析             (戻る

日本書紀「大倭16例」の解析である。いささか詳論証となる。

 

①  垂仁紀二五年条の「天照大神を祀り直そう」の文の割注(一に云う)に「大国主神」の意味で「倭大神」が、また「天照大神」の意味で「大倭大神」が出てくる。岩波版は両方共「やまとのおおかみ」と振り仮名しているが、注であるが別の神を「倭」「大倭」と書き分けているから、別の読み方がふさわしい。大和では「大国主神」の方が先在して「やまとの大神(おおかみ)」だった、と解釈すれば、この「倭(やまと)」は天武改字後の標準的な用字(読み方)として良い。この垂仁紀記事は「垂仁時代に大倭大神(天照大神)をやまとに祀り直そうとした」という内容だから、「神武がつくしから持ってきた天照大神」と解釈すれば、天武改字前の「大倭(たい)」(九州倭国の自称名、500年頃)か「大倭(つくし)」(通称)の用字(読み方)と解釈するのが妥当だが、神武の祖は「つくしのひむか」に天降った神祇系のニニギである(神代紀)。

「大倭(つくし)」の用字例に入れる。

 

② 垂仁紀二五年条に「大倭(やまと)直(あたひ)の祖長尾市宿禰」(振り仮名は岩波版)とある。これは「紀編纂時の大倭直の祖は垂仁時代の長尾某である」の意味であるから、これは「「倭(やまと)直」から「「大倭(やまと)」への天武改字に従った遡及表記である。「改姓」でなく「改字」であるから振り仮名が同じであることは妥当である。(「大倭(おおやまと)直」ではない)。

天武以降の「大倭(やまと)」の用字例に入れる

 

③ 神功紀六二年条に「百済記に云ふ、新羅が貴国(きこく)に奉らず、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣り之(新羅)を討たしむ、、、(サチヒコは美女で釣られて新羅でなく加羅を討つ)、、、加羅国王の妹が大倭に向かい敬(もう)して云ふ(抗議した)、、、天皇大怒し、即ち木羅斤資を遣わし云々」とある。ここで「大倭」とあるのは百済記であるから漢語である。倭国はこの頃から百済・新羅に対して「大倭(たいゐ)」を自称し始めていた。加羅が「大倭(倭国)」に抗議しているから「貴国(きこく)」(日本貴国=北肥前の日本軍の兵站基地、紀国と同じ語源を持つ名称か、尊称ではない)に新羅を討つよう命じたのは倭国王」と解釈できる(倭国軍・日本軍(応神)の連合軍統括者は倭国王)。漢語だから「大倭(たいゐ)」の例であるが、内容は九州倭国である。「大倭(やまと)」ではない。

 

④ 応神紀二五年条に「大倭木満致(もくまんち)が百済の国政を執る」とある。「大倭」は漢語であろう。しかし、「大倭」字を欠く写本があったり、整合性に問題があり、岩波版ではここの「大倭」を削除している。筆者は百済関連記事であるから漢語であり、読み方の節で示した(1)「「大倭(たいゐ)」の例に分類する。時代的に「大倭=九州倭国」である。

 

⑤ 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」とある。元は「「大倭(やまと)直(あたひ)」と称したとあり(仁徳紀)、「やまと」→ 「倭(やまと)」(天武以降) → 「大倭(やまと)」の当て字変化、前節(4)の例と考えられる。遡及表記である。「大倭(やまと)」の例である。

 

⑥ 雄略紀五年に「百済新撰に云ふ、、、大倭に向かい天王に侍し」とある。この漢語「大倭(たいゐ)」は前々節で検証した。百済新撰引用だから、漢語「大倭(たいゐ)」で九州倭国の自称名である。

 

⑦ 安閑紀元年に「都を大倭国勾金橋に遷す」とある。福岡県香春町勾金か。継体は「筑紫君磐井の乱」を制圧して磐井遺領を得たので、次の安閑は豊国勾金橋に遷都したのである。和語読みするときは「大倭(たい)」だが、これは外交用語なので民間では通称「大倭(つくし)」(前節(2)の例)だった可能性がある。いずれにしてもこの「大倭国」は九州である

 

⑧  安閑の次、宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上陵に葬る」とある。前項の「安閑の大倭国」と異なる理由が無いから「大倭(つくし)」とする。

 

⑨ 孝徳紀645年に「欽明天皇十三年(552年)に百済の明王(聖明王)が仏法を我が大倭に伝え奉る、、、而(しか)るを蘇我稲目宿禰独り其の法を信ず」とある。552年は「仏教大和初伝」である。欽明紀の引用風であるが、欽明紀に無い「大倭」を出している。欽明紀が使用した元興寺伽藍縁起の「大倭国仏法創めて百済より渡る(538年)」の「大倭」を孫使用したと思われる。こちらの「大倭国」は九州倭国である(⑦⑧)。引用に混乱がある。紀・縁起の「仏教伝来譚」には共に多資料の引用混在・作文・勘違い・時代の再編などあるようだが、源は「百済王の表(ふみ、漢文、欽明紀)」にあった可能性がある外交漢語「大倭(たいゐ)」に始まったと考える。背景はいろいろあるが、ここの「大倭」は538年の大倭(九州)でなく、「「大倭(やまと)」の遡及表記である。

 

⑩ 斉明紀661年に「伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこのしょ)に云ふ、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い近し云々」とある。この文章の解析は複雑だが、倭国と日本が対で出てくる文章だから九州倭国のことで、大和人の噂話であるから「大倭(つくし)」と振り仮名するのが妥当である

 

⑪ 天武紀675年に「大倭国瑞鶏を貢(たてまつ)れり」とある。倭国滅亡前に当たり、「大倭(やまと)」(遡及使用)、「大倭(つくし)」どちらとも取れるが、実はどちらも「宗主国が貢する」という、あり得ない内容となる。「「大倭(つくし)」が大和王権に貢した」と誤読誘導する文章、と考え筆者は後者を取る(大倭(つくし)の個人が天武天皇に瑞鶏を奉った些事の針小棒大譚か)。

 

⑫ 天武紀675年に「大倭、河内、、、(他十三国列挙)に勅す」とある。これは「やまと」へ「大倭」字を当てた683年以降の改字の遡及表記「大倭(やまと)」である。

 

⑬ 天武紀685年「大倭(やまと)連(むらじ)」がある。「倭(やまと)連(むらじ)」の改字である。

 

⑭ 持統紀686年「美濃の軍将等と大倭桀豪、共に大友皇子を誅し云々」とある。人名「大倭(やまと)桀豪(いさを)」か「大倭(やまと)の豪傑」の意か不明だが、「大倭(やまと)」の例である。

 

⑮ 持統紀692年「四所、伊勢、大倭、住吉、紀伊」とあり「大倭(やまと)」の例である。

 

⑯ 持統紀692年「五社、伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足」とあり「大倭(やまと)」の例である。

 

以上、まとめると

「大倭=九州倭国・つくし」は8例(①③④⑥⑦⑧⑩⑪、この内漢語系は③④⑥)、

「大倭=やまと」は他の8例②⑤⑨⑫⑬⑭⑮⑯である。

 

即ち後世写本のように、16例すべてに「大倭(やまと)」と振り仮名するのは正しくない。この誤訓(あるいは誤読誘導)の結果「大和王権の九州遷都」という正しい認識が失われ、日本書紀の後世解釈が史実から遊離し「不整合だらけ」となる結果を招いた。日本書紀の誤読が糺(ただ)されなければならない所以(ゆえん)である。「後世の、誤読誘導の振り仮名」から解放されれは、日本書紀の上述した検証により、「三種類の読み方」が正しいことが判る。正しているのは「振り仮名以前の日本書紀原文」である。    (戻る

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●注4   筑紫君磐井の乱  (戻る

継体紀527年 抜粋

「近江毛野臣が兵6万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅を任那に取り戻そうとした。このとき筑紫国造磐井、ひそかに反逆を企て、、、火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)2国を押さえて、、、ここに天皇は、、、物部麁鹿火(あらかい)に『お前が行って討て、、、長門以東は朕之を制す。筑紫以西(は大和の分国として)汝之制せよ、、、』と言った。激戦の後、磐井を切り、反乱を鎮圧した。筑紫君葛子は、父に連座することを恐れ、、、糟屋屯倉を献上して死罪を免れることを請うた。」

 

定説は「磐井は大和朝廷に対して反乱した」とする。しかし、日本書紀は「倭国王不記載」の方針だったから記していないが、倭国/日本(継体)/近江は連合軍、反乱相手は倭国王だ。

九州王朝説は「磐井(筑紫の君=倭国王)、反乱したのは継体。反乱は結局失敗した。」とする。しかし、もしそうだったとしたら、倭国不記載の日本書紀は記載しなかったはずだ、失敗譚でもあるから。

 

正しくは、「磐井は九州の豪族、反乱した相手はもちろん倭国王。磐井の祖は崇神の四道将軍として北陸に派遣された大彦命(孝元第一皇子)。神功/武内宿禰軍の一角として九州遠征に加わり、九州に定着した大和系豪族」と考えられる。「筑紫の君」とは大和から呼ばれた呼称であろう。「大彦七族の内、筑紫に居る大和系王族」の呼称と思われる。「越の君」呼称もある。官位ではなく氏族名だ。

 

筑紫君といっても筑紫全土を支配していたのではなく、豊前・肥前・肥後・筑後に点在する領地を持って倭国王家に仕えていた豪族だろう(特徴的な石像の分布などから)。後世の区画に従えば「筑後君」であって倭国王が拠点とした「筑前」ではない。磐井についての詳記が「筑後国風土記」にあるからだ。

 

磐井は中国東北部出身の宿禰系と近い大彦の子孫であるから北朝に親近感をもつはずだ。倭国王に「滅亡した宋の代わりに北魏へ朝貢すべき。律令を導入するなら南朝よりは北魏から」と強く進言したのではないか。しかし、倭国王は頑なにそれを拒んだ。そんな倭国を見限り、磐井は継体の味方も期待して「今立てば倭国王家に代わって列島主導権を握れる。」と見て反乱となったのではないだろうか。

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●注5    外交宗主権      (戻る

倭国の列島宗主権とは言え、列島120の分諸国(隋書)を軍事的・経済的に支配していた訳ではない。宗主権の主たる項目は外交代表権・軍事主導権であって、貿易主導権から来る文化・文明の先進性、遣宋使を通じて得た朝廷儀式・冠位・律令制度などであった。

しかし、この時期は宋が滅亡して、半島でも任那回復活動どまりであったから、宗主権とは半島外交代表権どまり、それを外交宗主権として、大和に移譲した時期である。

大和にとっては外交宗主権は初めてであり、誇りたい事績であった。欽明紀に大書されている。(戻る

 

 

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●注6   倭国と日本の関係 雄略紀五年条(461年)   (戻る

倭国王興と日本大和雄略天皇は百済王の二人の兄弟を人質としてを分け取りするような兄弟国だったことが次の二つの紀から解る(「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993 年)。ちなみに後述するように「日本国」は「大和国が主導する東国諸国」の海外での「見做し国名」であって、大和国が東国諸国を支配していた訳ではない、と筆者は考える。

 

雄略紀五年条(461年)

「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往き、天皇に仕えよ、、、加須利君、、、児の名を嶋君と言う、、、是れ武寧王と為る、、」

「百済新撰に云う、、、蓋鹵王(がいろおう、百済王)、弟の昆攴君を遣わし、大倭に向かわせ天王 [6] に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」(後半)

 

武烈紀四年条

「百済新撰に云う、、、武寧王立つ斯麻王と諱(い)う。是れ混攴王子の子なり」

 

雄略紀を要約すると「百済の加須利君が弟を日本の天皇に仕えさせた。百済新撰には『百済王が弟を大倭の天王に仕えさせた』とある。」と二文が並記されている。和文と百済新撰の漢文が似ているから「二文同一」と解されて「大倭=日本」「天王=天皇」とされた(定説)。

 

しかし、これに武烈紀の「武寧王=斯麻王=混攴の子」を合わせ読みすると、系図風には次のようにまとめられる。

 

┏兄 蓋鹵王(百済王)

┣弟(次兄)昆攴君(百済の加須利君)━ 斯麻王(=嶋王)=武寧王

┃        大倭の天王に仕える

┗末弟 軍君   日本の天皇に仕える

 

坂田の結論は「百済王は三兄弟だった。兄蓋鹵王は弟の昆支君を大倭の天王に仕えさせ、この昆支君(=加須利君)は末弟の軍君を日本の天皇に仕えさせた」と言う、極めて明快な記述、とする。すなわち、「大倭≠日本」であり、「天王≠天皇」だ。これは、日本書紀(引用の百済新撰を含む)だけで読み取れる論理であって「推測」ではない。

 

雄略紀五年条のここの「天王」について、卜部(うらべ)本(写本)は「天皇」とするが、それより古い前田本・宮内庁本は「天王」とし、特に前田本では「皇」と書いた上から「王」と訂正しているなどから、「天王」が原型とされる。上掲の引用文「日本書紀原文朝日新聞社版」では「天皇」となっているが、「天王=天皇」が定説となった後の版と考えられるので、坂田はここでは「天王」を採用した。

 

百済新撰の「大倭(たいゐ、漢語)」の和読は「大倭(たいい、たい)」だ。口語では「大倭(つくし)」だったかもしれない。百済では「大倭=九州倭国」、「日本=やまと国が主導する東方倭諸国」(単一国ではないが、見做し国名)と認識されていた。

 

以上から、列島宗主国王は「大倭天王」であり、その次が日本雄略天皇と解釈できる。二人は主従ではなく「大倭天王≧日本天皇」のようだ。筆者は「前者(大倭)=ニニギの兄ホアカリの後裔=兄国」と推測し、「後者(日本)=ニニギの後裔=弟国」のような兄弟国と考えている。

 

ちなみに「日本という国号はこの頃まだ無かった」という説が多いが、神功紀以降「日本」は海外(新羅・百済)で使われた。それは「列島東方諸国軍」が「日本」と自称し、使わせたからで、元語は「ひもと」(日向(ひむか)と対で使われた「東方地域」を指す和語)であった。列島内では使われなくなったが、海外では倭国軍の傘下の「大和が主導する軍団」としてまとめて日本国と呼ばれた(漢語みなし国名)。やまとが東方倭諸国を支配していた訳ではなく、倭国との連携窓口を(アマテラス系)兄弟国のやまとが担ったのである(「みなし地方宗主国」のような立場)。

 

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●注7    九州の拠点と物部尾輿       (戻る

倭国王に要請された「任那回復戦略」を指揮する為に、継体は九州に得た屯倉(みやけ、磐井の遺領)の一つ、恐らく糟屋屯倉(現福岡県糟屋郡、継体紀528年)を拠点に半島戦略に専念した。 

物部尾輿が大和王権大連になった(欽明紀元年539年、大連初任記事)。欽明天皇の新羅戦略に関する諮問に答えている。ところがその5年前、大連任命記事が無いのにある盗難記事に物部尾輿が「大連」として登場する(安閑紀元年534年、尾輿の初出)。即ち物部尾輿は「大和朝廷大連として登場する前から別の朝廷の大連、即ち倭国朝廷の大連であった」と解される。だからこそ新羅戦略を諮問され、新しく九州に来た欽明天皇を支援することが期待された兼務任命と思われる。

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●注8 「遣隋使」    (戻る

「遣隋使」に関する史料は二つしかない。「隋書」と「推古紀」である。二つの記事は「一致する記述」と「一致しない記述」がある。一致するから「二つの文書は同一事績を記している」と考えられている。古来の「定説」でも、新しい「九州王朝説」でもその点は異論ない。しかし、一致しない部分については様々な解釈がある。定説は「隋書には倭国王は男帝とあり、女帝推古ではなく聖徳太子のことだ」とし、他方、九州王朝説は「遣隋使は九州倭国王(男王)の派遣である。推古紀は倭国史の盗用だ」とする。

 

しかし、二つの史料を論理的に読むと、二つの史料はそれぞれの外交原則に基づく立場の違いはあるが極めて論理的に書かれており、立場の違いからくる不記載はあっても不実記載は無い、と読める。不一致に見えるポイントは、隋書は「裏外交は記せず」の原則に則り、倭国との公式外交だけを記し、推古との裏外交は伏せている。推古紀は「倭国不記載」の対唐外交原則に則り、遣隋使派遣者倭国王と主使を伏せ、推古の派遣した随行使小野妹子だけを記している。それらを理解すれば、二史料は政治的ではあるが己の原則に基づいて史実を淡々と記述しいて、二史料だけで全体像が整合性良く把握できる。目から鱗である。経緯は次のようだ。

 

(1) 遣隋使の派遣主は倭国(当時?国と改号していた)の王多利思北孤(たりしほこ)、王は「日出ずる国の天子云々、、、」の対等外交国書で煬帝を怒らせた。この遣隋使に推古は小野妹子を随行使として送っていた。

 

(2) 煬帝は調査使裴世清を多利思北孤と推古に送り、前者から「朝貢開始と?国改号取り消し(倭国に戻す)」の約束を取り付けた(平等外交の撤回)。続けて大和の推古に煬帝の国書を伝えた。その国書は「皇帝(煬帝)、倭皇遠く朝貢をおさむるを知る、朕嘉(よみ)するあり、、、」とある。中国は通常朝貢国の格下の分国から二重の朝貢は受けない。推古の奉物を朝貢と認めたのは「?国を認めず、代わりに推古を倭国の朝貢権を持つ倭王」と持ち上げのだ。

 

(3) しかし、倭国が折れて朝貢を開始したので、結果的に一国に二重の朝貢を認めたことになるが、最終的には推古の朝貢権は反故(ほご)にされた。煬帝の「遠交近攻策」「推古との裏外交」の完勝である。

 

以上の解釈で、隋書(推古との裏外交は記さない)と推古紀(倭国不記載、推古外交しか記さない)が綺麗に整合する。

 

俀(イ妥)国遣隋使(第一次600年)は推古紀に記述が無いから、この遣主は推古ではありません。倭国王です。これに続いて隋書は第二次俀(イ妥)国遣隋使607年を記しています。隋書は同じ遣主と見做しているからこれも推古ではありません。しかし、同じ年の推古紀607年に「小野妹子を派遣した」とあります。これは紀の倭国不記載方針を勘案すれば「倭国の遣隋使に推古は小野妹子を随行使として派遣した」と解釈できます。

 

隋書には「俀(イ妥)は城郭無し、内官十二等あり、、、軍尼(くに)百二十有り、中国の牧宰(ぼくさい、地方長官)のごとし、、、冠制を始む、、、兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、新羅・百済は皆俀(たい、イ妥)を以って大国となし、珍物多く、並(みな)敬仰し、、、」と。即ち、倭国は内政を整備し、新羅・百済とも文化・経済交流で敬仰を得て、「外交権を取り戻した宗主国」に復帰したのです。その象徴が遣隋使です。倭国は国名を「俀(たい)国」と改号して遣隋使を送りました(第一次600年)。隋は上記のように高く評価しているから俀(イ妥)国(倭国)の列島宗主国外交は成功したかにみえます。

 

付言すれば、この第二次遣隋使が提出したのが「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々」という有名な対等外交の国書である。これに対して隋の煬帝は「復(また)以て聞(ぶん)するなかれ」と怒ったという。しかし、煬帝は遣隋使の帰国便に調査使裴世清を送り、その報告書が?国伝に書かれ、末尾に「(?国の使いが裴世清の帰国に同行して)方物(ほうもつ)を来貢した、この後遂に絶ゆ(?国を名乗る遣使は二度と来なかった)」で終わっている。俀(イ妥)国は対等外交を断念して朝貢外交を受け入れ、再度改号して倭国に戻った。倭国の「対等外交」は失敗したのである。列島宗主権を取り戻した倭国はまもなく隋が滅亡すると、唐に対して対等外交(遣使はすれど朝貢せず)を再度執拗に試みて、最後は白村江戦で唐に大敗して滅亡する。遣隋使から60年後ですが、それはのちの話。

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●注9   随行使  (戻る

倭国は中国に遣使する時、しばしば大和の随行使を伴っている。

 

(1) 倭国台与の遣晋使(266年)には文献が二つある。 神功紀 「晋の起居注(皇帝日誌)に曰く、『武帝の泰始2年(266年)、、、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ』と」・ 晋書武帝紀 「泰始2年(266年)、、、倭人来たりて方物を献ず」

 二つの史料は似ているから同一事績とするのが定説だが、後者の「方物(宝物)を献ず」という表現は通常まだ朝貢関係を持っていないかこれから持とうとする使節に使い、「朝貢使」には使わない。だから前者の「朝貢使」と後者は別の使者だ。では「倭国と別の倭人国が遠く危険を冒して別々に遣使」したのだろうか。そうではなく「朝貢する倭(国)女王(台与)の遣使」に「倭国とは別の、未だ朝貢していない倭種の国の遣使」が「随行」した、と考える方が自然だ。この随行使は大和からの可能性が高い。その理由は纒向古墳には晋尺がつかわれているという(森浩一「古墳の発掘」)。晋尺が伝わる可能性を示す記事はこれしかない。

 

(2) 「雄略紀の遣呉使」は「倭国遣宋使に大和随行使が同乗、遼西呉国に立ち寄った。雄略紀462年に「呉国が遣使貢献した」、464年に「、、、を呉国に遣わす」、470年に「、、、等、呉国使と共に呉の献ずる手末の才伎、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等をひきいて住吉津に泊まる」(漢人技工の大和招聘)とある。ここで、定説・九州王朝説とも「呉=南朝宋」とする。しかし、宋が「貢」するはずはない。この「呉」は呉の末裔が宋の西「遼西」に建てた小国「遼西呉国」で百済建国前の故地である。この時代、ここから百済経由で宋の文物が流入していた(呉物・呉服・呉琴など)。倭国がここから漢人技工を招聘し、その一部を雄略朝の随行使が住吉経由で大和に分置した記事である。倭国の遣宋使に大和随行使が同乗していて、それが遼西呉国に立ち寄った可能性が高い。定説の「呉国=宋」は正しくない。

 

(3)  「推古紀の遣隋使小野妹子」は「俀(たい、大倭の佳字)国の遣隋使への大和随行使(小野妹子)」(本文)

 

(4)  「孝徳紀の遣唐使」は「倭国遣唐使への大和随行使」。孝徳紀白雉五年(654年)に「(唐役人が遣唐使の孝徳派遣の随行使に)日本国の地理および国の神の名を問う、みな問いに随い答える」とある。同様の記事は「唐会要倭国伝654年」に現れるから倭国遣唐使である。しかし、「新唐書日本伝654年条」にも同様の記事があるから「倭国遣唐使に日本随行使が同乗した」と考えられる。中国が呼び掛けに「日本」を使った初例で、新羅が使う「日本」に倣(なら)ったのであろう。その背景にはこの頃「唐が新羅と連合し始めた」がある。「唐と対立する百済・倭国連合の背後の日本に接近・牽制する」ことが、新羅・唐連合の共通の関心事となったようだ。「日本」には「やまとを含む東国諸国」を総括する見做(みな)し国名の意味合いがあり、「大和王権を広域日本の代表と見做(みな)すから、取り纏(まと)めて倭国に離反してくれ」という中国の狙いがある。

 

(5)  「斉明紀の遣唐使」は「倭国遣唐使への大和随行使」。

斉明紀 割注所引伊吉連博徳(いきのむらじはかとこの)書

659年「(遣唐使、摂津)難波、、、より発す、、、(唐の)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭の客(東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、」、

661年「(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな」

とある。ここで唐帝は「日本」と「倭」を言い分けている。日本書紀注は「日本」と「倭」と「大倭」を書き分けている 。当然注釈者はその違いを分っている。読者が分かると思っている。しかし後世の写本はすべてに「やまと」と振り仮名している。これでは原文の意味「国(総国)の遣唐使に日本(大和を含む東日本)の随行使が同乗した。その報告を聞いた大和関係者が大倭(つくし)の噂をした」とは和読では読み取れない。「誤訓」なのか意図的な「偽訓」なのかは分からない。

 

以上、古来随行使は珍しくない。   (戻る

 

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●注10   推古の「大和小墾田宮」  (戻る

推古天皇は592年に豊浦(とゆら)宮で即位したが、推古紀603年に「小墾田宮に遷る」とある。

豊浦・小墾田の比定地には諸説あるが、「豊浦は肥前三根郡葛木豊浦か」、小墾田も「稲目宿禰、、、(仏を)小墾田家に安置す、、、向原の家を寺と為す」(欽明紀552年)とあるから「肥前三根郡向原(現佐賀県鳥栖市西の向原川近く)か」とする説が説得力がある。

 

しかし「小墾田宮」の比定にはその先が必要で、筆者の解釈は「603年には推古天皇は豊浦から大和に遷り、その宮を祖父の肥前小墾田にちなんで「小墾田宮」と名付けた、とする(大和小墾田宮)。大和には地名としての小墾田は無い。

 

実は、皇極天皇が肥前小墾田に「小墾田宮」(仮宮)を造ったが、それはのちの話(皇極紀642年)。

 

(1) 591年倭国王家の王族「上宮王」が倭国王家から独立し、蘇我馬子がこの新王権(肥前)に馳せ参じて倭国朝廷を去った。その結果、肥前に二つの王権を擁立するわけにゆかず、大和の蘇我領に「大和小墾田宮」を造り、推古天皇を「敏達を継ぐ大和天皇」として大和に送り込んだと考えられる(603年)。

 

(2) 一時的九州遷都の間、大和王権が「日本国」と呼ばれたことはない(任那日本府を除く)。ところが、推古が大和に遷るととたんに「高麗王が日本の天皇(推古)が仏像(丈六仏)を造ると聞き、黄金三百両を貢上した」(推古紀605年)が現れる。以降、聖徳太子と半島仏教の関連事績として「日本」が3回現れる。いずれも半島関係者の使用語で漢語系である。

 

(3)推古は大和に元興寺の建立を始めた。丈六銅仏である。推古紀606年「四月、、、丈六銅像は元興寺金堂に坐せしむ」。これが現飛鳥寺大仏である。推古の大和帰還早々の大事業である。

 

(4)  608年推古天皇は隋使裴清を摂津難波と大和に迎えている。この時の情報を隋書は「邪靡堆(やまと)、、、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり」としている。「邪馬臺云々」は別として、推古が大和に居たことを示す重要な証拠である(「邪靡堆=大和」論については後述)。

 

(5) 大和に小墾田宮があったことを示す記述がある。孝徳紀649年に、「(摂津難波宮に居た孝徳)天皇は、、、(讒訴事件で中大兄に追われて九州から逃げて来た)蘇我倉山田麻呂大臣を攻めた。大臣の長子興志は是より先倭(やまと)に在って(山田寺(奈良桜井市)を建造中であったが)、、、是の夜、興志は宮を焼くことを欲す、[宮は小墾田宮と謂う]」とある。

大和に居て孝徳軍の襲撃を受けた蘇我興志が反撃として近くの「小墾田宮」を焼く、というこの宮は「大和小墾田宮」である。この文からは、孝徳は推古天皇から受け継いだ「大和小墾田宮」に居たが(629年-645年)、難波遷都(645年)の後649年時点では、「大和小墾田宮」を領有はしていたが、そこには居なかった、と解釈できる。地文でなく注である点は論証として弱いが、この注が「肥前小墾田宮」を指す可能性はない。そこは蘇我倉山田麻呂が負けたばかりの相手の本拠、即ち642年以来中大兄皇子が守る上宮王家の宮だからである。この頃、孝徳天皇と中大兄皇子は既に王権合体で連携していた。  

 

 以上から蘇我系大和王権の「小墾田宮」は「大和小墾田宮」である。「いつ遷ったか」については日本書紀では唯一の記録が「603年、小墾田宮に遷る」(推古紀)であるから、「603年、推古天皇は大和小墾田宮に遷った」とするしかない。

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●注11  一図で解かる「日本古代史」       (戻る

「千年の(振り仮名)誤読」から解放されると、日本古代史は整合性のある一図「日本古代史全体の俯瞰図」にまとめることができます。

 

情報は多すぎますので、ここでは図の右下半にある「安閑~推古(前半)」(下図572番)の背景が黄色(九州を示す)にあることにご注目ください。九州遷都を示しました。

 

 この図の要所70点に解説ボタンを加えて解説を表示できる図を筆者別サイトこちらでご検討いただけます。戻る時は新フレームを消してください。ただ、これ以上深入りすると混乱するので、今回はここまでにします。

 

 

 

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「千年の誤読」 第1話 注    了 

 

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