「藤圭子」さんのBiography(デビュー後)ー外伝20(浅草国際劇場ワンマンショーの序章①) | かどのブログー藤圭子さんを決して忘れないー

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今は藤圭子さんについて書いています。
私にとって、偉大な歌手「藤圭子」を忘れないために・・。

富士の花
唄ひとすじに
駆けていく
あまた(光)の心に
流星一つ。

以前、「誠実ということ」という題の、圭子さんの詩を紹介しました。いつごろに作られた
ものか、解らなかったのですが、判明しましたので紹介したいと思います。話は少し前後します。ご容赦を。

「傷だらけになっても」

 昭和四十五年七月五日、この日は私の十八歳の誕生日です(※原文通り)。その日発売された二枚目のLP『女のブルース/演歌の星』も、四枚めのシングル盤「命預けます」も好評で、二度めのワンマンショウ(※浅草国際劇場)や、初出演映画の企画が、どっと予定されたのはそのころでした。
 新宿の女でデビューして早いもので、一年がたってしまいました。私にとってデビューから満十八歳の誕生日までの一年間はいろんな意味で幸運な一年でありました。
 その頃、母はよく私のからだを気づかって、
「のどは大丈夫かい。気をつけなくちゃいけないよ……」
 といってはげましてくれました。
「大丈夫よ。お母さんこそ気をつけてね」
 そんな、ある日、何週間ぶりの休日に母の肩をもみながら、私は満十八歳になって、始めて
「幸福だなあ……」と思いました。
「純ちゃんはとてもツイってきたみたい」
「なんで……」
「なんでっていわれると困るけど。〝女のブルース”も〝夢は夜ひらく”もつぎつぎにヒットでしょう。テレビにもしょっちゅう出られるようになったじゃない。ワンマンショウもひらいたわ。もういうことないじゃない。とても幸福なはずよ……」
 いつになく母の声ははずんでいました。
「うーん。ほんとね私とてもシアワセ……」
「お兄ちゃんは念願かなってデビューしたし、これで一安心よ。ほんとにようやく私たちにもツキがまわってきたのね」
 そこへ父が入りこんできていいました。
「そうさ、人生は捨てたら、それで終わりさ……。」
その夜、父と母を交えて私は夜おそくまで、せんべいをかじりながら、あれこれと北海道の苦しかったころのことや、流しの辛い思い出話に花を咲かせました。
「ねえ、お母さん、私はこのごろの週刊誌にGSグループのMさんとの関係をかかれてるんだけど、ああいうのはいやだなァ。なんにもないのよ……。」
「いいじゃないの、芸人なんていうのは、いつも話題にされてなきゃだめよ。有名税だと思ってがまんしなさい。」
「そうかな?」
「そうよ、気にしちゅあだめ」
私は父と母と話をしていると。自分自身から、すうっとー藤圭子という歌手の存在が消えてゆき、ひとりの少女・阿部純子に戻ってゆくような気がしたものです。
ー二十三歳になったら、歌手をやめよう。やめていい相手がいたら、結婚して、平凡な家庭をつくろう。とにかく、あったかい家庭がほしい。小さくてもいいから、陽のあたる芝生のある白い家に住んでダンナさんのために、懸命につくしたいー
 ふと、そんな夢みたいなことを考えてばかりいました。
 昔は、一曲うたって千円でももらえれば、それこそ天にものぼる心地がしました。
 いまだって私は高級なデパートよりもそこいらの町の商店街で三百円のシャツを買うことの方が、ずうっと楽しいし、自分にピッタリだと思います。
 その昔、お祭りの舞台でうたったとき、拍手をくれたある年老いたおじいちゃんの顔や小さな子供の大きな拍手が、なんとなくなつかしく思われるのも満十八歳の乙女の感傷でしょうか。
 十八歳の誕生日に私はこんな詩を一篇つくりました。

「誠実ということ」
「藤圭子」さんのBiography(デビュー前)ー外伝10(圭子の詩)後編


<写真>

両親と

家族1

演歌の星の24時間7



<参考文献>
「演歌の星藤圭子物語」

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