「藤圭子」さんのBiography(デビュー前)ーその3(運命の出会い) | かどのブログー藤圭子さんを決して忘れないー

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今は藤圭子さんについて書いています。
私にとって、偉大な歌手「藤圭子」を忘れないために・・。

富士の花
唄ひとすじに
駆けていく
あまた(光)の心に
流星一つ。

 昨日は、少し横道にそれてしまった。外伝みたいにすればよかったかな。初恋の話とか、汽車で遠くに歌いに行く時の詩とか、心動かされる記事もあるんだけど、本筋とは関係ないので、外伝みたいに後で書きますね。
 
小学校卒業と、中学入学の年月日は不明です。中学3年のとき、神居中学から岩見沢近くの栄中学に転校。
岩見沢温泉のきらく園の、専属歌手として歌っていた。
得意の歌は「函館の女」(北島三郎)で、結構、評判だったらしいです。

1967年2月岩見沢市の雪祭りが開かれ、市民会館での歌謡曲大会にピンチヒッターで、出ることになったんだって。オーケストラをバックに、500人の観客の前で歌うのは、たいそう上がったらしく、十八番の「出世街道」を歌ったんだけど、拍手はパラパラだったんだって。
 まだ、こんな時もあったんだね。当たり前か。
 ここで、最初の運命の出会いがあったんだ。八洲秀章先生という作曲家との出会いです。

 ベソをかきかき楽屋に戻ってきた私を待っていたのは、一人の中年紳士でした。
 「きみ、ぼくは東京からきた八洲という作曲家だが……」
 私のうたった歌に、いっぺにほれ込んだというのです。
 私は半信半疑の気持ちでした。さっそく両親に会うと、その八洲さんという先生は、
 「どうです。娘さんを東京にだして一から勉強し直しませんか。きっと、一人前になれますよ。本当です。私が保証しますよ……」

 この出会いがあり、兄の博さんが、東京で先に流しをして生活しており、その助言もあって、東京に出る決意をするんだ。初恋の淡い思い出も、三条純子として、そこそこ上げていた収入も全て捨て去って…。

<中学生の頃の純子さんです>
 前列真ん中が純子さんです。



<参考文献 写真>
「演歌の星 藤圭子物語」


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