今年の4月中頃、急に思い立って奈良県の三輪山に行ってきました。その少し前に箸墓古墳の調査が許されて、これは卑弥呼の墓かとか、邪馬台国はここ大和の地にあったのか、などとテレビで放映されているのを見たのがきっかけ。三輪山は日本有数のパワースポットとして知られているところなので以前から是非行ってみたかったのですが、なかなかきっかけがつかめなくて。。今回ついでに箸墓古墳なども見てくるか、ということで出かけてきました。

 JR桜井線の三輪駅で降りて、まずは大神(おおみわ)神社へ。ここは日本最古の神社の一つとして有名なところで、
本殿はなく、拝殿から三輪山を拝むようになっていて、つまり三輪山そのものを御神体として祭っています。

 
 三輪山は、この大神神社を抜けた奥の狭井神社というところから登ります。三輪山は、古事記や日本書記に出てくる『大国主神』の魂にあたる『大物主神』を祀る山で、縄文時代のころから天上にいる存在と地上にいる人間が交流をする最も代表的な場所であったと言われています。縄文時代の人々は、今よりずっと霊的な存在と交流する能力が高かったとのことで、日本の各地にいくつか神と交流する山があり、三輪山はその中でも主流な場所のひとつだったとのこと。その他、広島の宮島にある弥山(厳島神社の裏にある山)もそういう場所だったそうです。


 まずはここの社務所で登拝の申込みをして、鈴付きのたすきを受け取り、それを首にかけて登拝開始。三輪山はその山そのものが神聖な神殿と見なされているので、勝手に登山することはできません。たすきは山の神に敬意を表するための正装。かつ入山後の写真撮影は禁止されています。なので、このブログでもこれ以降は写真無し。その代わり(?) 三輪山の全容を表した地図を載せておきます。


 山頂までは登り約一時間半。老若男女多くの人が登っていますが、結構急です。最初のうち(三光の瀧あたりまで)はそれでもまだ大分余裕があったのですが、それからはかなり急な登りが続いて息が上がります。でも登っていくにつれて、なんとなく周りの空気というか、『気』のようなものが変わっていくような感じがして、とても気持ちがいいです。

 やがて中腹の『中津磐座(なかついわくら)』というところに到着して一休み。磐座というのは、神が地上に降り立つ場所とされた岩場のこと。日本に昔からある古新道において、シャーマン達がこの磐座で祈祷し天の存在と繋がった場所ということなのでしょうか。縄文時代あるいはそれ以前の時代において、神は神殿のような建物に住みつくのではなく、自然の中に住む(自然こそが神そのものの体現)とされていたため、こうした磐座で祈祷が捧げられたとのこと。
注連縄で囲われた林の中の斜面に大きな岩がいくつもあって、鬱蒼とした感じながら何かピリッとした清廉な雰囲気を感じます。木々に光が遮られてうす暗い中、そこで祈祷を捧げている当時の人が目に浮かぶよう。。。

 さらに山頂を目指して急な坂道を進みます。中津磐座までも結構きつかったが、ここから先は更にきつい。。。休み休みやっと、山頂の
『奥津磐座(おきついわくら)』に到着。ここもまた、注連縄に区切られた平らな土地に多数の大きな岩があり、とても神聖な感じがするところです。暫くのあいだ腰をおろして、その場のエネルギーに浸ります。自然の発するとても優しいパワーを感じます。縄文時代に私もここで祈祷に加わっていたような、そんな気さえしてきます。

 前回のブログにも書きましたが、私は『縄文時代の生き方』にとても魅かれます。稲作を中心とした『何かを得る(食糧など)ためには何か(稲作など)をしなければいけない』という弥生的な考え方よりは、『自然が必要なもの(食糧など)は十分に与えてくれていて、後はそれを感謝して受け取るだけで良い』という考え方を多分に持っていた時代。縄文時代ってそういう時代だったのではないかと思うんです。自ずと自然に対する感謝や敬愛の念が湧いてくる。そんな気分を味わいながら小一時間も奥津磐座に座りこんで、自然のエネルギーをチャージアップしてきました。とても気持ちの良い強力なパワースポットだと思います。今度は秋頃行ってみようかな。。

 下山の途中、他の家族連れの人がしている話が耳に入りました。その人が言うに、『ここの木を全部切り取っちゃえば大和平野が一望できる良い眺めになるのにな』って。確かに三輪山の登山道全体が鬱蒼とした林に囲まれていて、ほとんど外の景観はありません。きっと仰る通り、そこらへんの木を切り取ると大和平野一面を見渡せる気持ちの良い景観が得られるんだと思います。が、これってまさに弥生時代以降、現在に至っている価値観の考え方ですよね。つまり、人間は自然を支配する力があって、人間の都合で自然を変えてしまっても良い、という考え方。一方、上述の縄文文化の考え方だと、人間も自然の一部であり自然の力に大きな感謝と敬愛を持っているので、人間の都合でそれを変えてしまうなどということは考えない。。景観を得たいのならば、そこの木を切り開くのではなく、元々景観が得られる場所を探しだす、という考え方をすると思うんです。それは登山道の本道を外れた生きにくい不便なところかもしれないし、高い木に登ったところなのかもしれないが、いずれにせよ木を切ってしまうのではなく、元々自然が与えてくれている素晴らしい景観が得られる場所を探しだす。。。そんな縄文的な考え方にとても魅かれます。より多くの人がそういう縄文的な考え方をするようになれば、もっと人は幸せに生きられるような、そんな気がするわけです。。。














 。。。前回より続く。。。

 私は、この『必要なものは自然が充分なだけ与えてくれてただそれを受け取れば良い』という考え方にとても魅かれます。ともすると怠け者の考え方のように聞こえるかもしれませんが、決して縄文時代の人達が怠け者だったとは思いません。ただ基本概念が自然に対する敬愛と信頼と感謝だったということではないでしょうか。現在の我々が根強く持っている『何かをしなければ何も得られない』という観念も本当にそうだろうかと改めて考えて直してみると、ただ単にそう思い込んでいるだけに過ぎないのではないかと感じるんです。稲作文化・弥生文化以降、長い人類の歴史の中で無意識の深いところ、基本的な常識・観念の中に刷りこまた観念に過ぎないのではないか、と。

 もちろん過去私もこの弥生的観念にどっぷり漬かっていました。会社にいてお金を頂いている以上これを『やらなくてはならない』、家族を養うため給料をもらうためにはこれを『やらなければならない』、などなど。。でもこれまで述べてきたように、退社して独立して、ソースや引き寄せの法則、セドナメソッドなどに接しているうちに、縄文的な考え方のほうがしっくり感じるようになりました。もっと『弥生的な考え方』から『縄文的な考え方』に移行する人が増えていくと、この地球全体がもっと幸せな人で溢れかえるようになる気がします。。。ちなみに縄文的に生きるというのは、何も原始的な生活に戻れと言っている訳ではありませんよ。ハイテクはハイテクで、皆で楽しく活用すれば良い。要は基本的なものの考え方という意味です。基本的な観念を縄文式にしたら良いのでは、という意味です。そんな観念の転換がアセンションということに繋がっているように思う今日この頃です。


 これまで『退社と独立』というテーマで、私が退社して独立するまでのことを語ってきましたが、現在に至るまでのことを一通り語り終わった感じなので、ここで新たに『好きな言葉&考え方』というテーマで私の人生の指針となっている言葉や考え方を紹介させていただこうと思います。最初に紹介したい考え方は『縄文的に生きる』ということ。


 最近日本の古代史に興味を持っていて、その手の本をいろいろ読み漁っています。特に縄文時代~邪馬台国時代にとても興味があり、最近話題になった箸墓古墳などにもとても魅かれます。箸墓古墳に眠っているヤマトトトヒモモソヒメというは卑弥呼なのかその後継のトヨなのか、果たして邪馬台国はこの奈良大和の地にあったのか、そもそも邪馬台国以前の縄文~弥生時代には人々はどんな考え方でどんな生活をしていたのか、、などなど。。

 そんな中でもことさら縄文時代の人々の生き方に興味があります。弥生時代以降は稲作をベースにした文化なので、基になる考え方が『食べ物を得るためには自分で稲を植えて育てなければならない』、つまり『何か(食料)を得るためには何か(稲作)をしなければならない』という考え方だと思うんです。あるいは『これは自分が作ったもの(稲)なので“自分のもの”で他人にはあげない』という所有&独占の観念に繋がりやすいように思います。これらの考え方は現在でも我々の観念の中に深く息づいている基本概念ですよね。

 それに対して縄文時代は自然が与えてくれるものを獲って食べるという文化なので、きっと『食べ物は自分で作るというよりは元々自然が与えてくれているもの』、つまり『自然が必要なものはすべて与えてくれていて、ただそれを感謝して受け取るだけで良い』という考え方が強かったのではないでしょうか。自然が必要なものはすべて与えてくれるという認識の元では、きっと上述の弥生的考え方より“自分のもの”という観念が薄く、『元々自然が与えてくれたものなので皆で分け与えよう』、そして『皆で分けても自然は充分に与えてくれるので溜め込んで独占する必要もない』という思想に繋がりやすかったのではないかと思うんです。もちろん縄文的な生活の中でも食べ物が足りなくなって、だから収穫物を溜め込んで独占しようとすることもあったでしょう。むしろ食料事情が天候などの自然環境に大きく左右される不自由さから稲作が始まったのでしょうから、むしろ縄文時代のほうが収穫物を溜め込みたいという環境が多かったかもしれません。が、少なくとも人々の考え方の根底には『必要なもの(人の命も含めて)はすべて充分なだけ自然が与えてくれて、それを受け取ればよい』という観念が強く流れていたように思うんです。それが稲作を中心とした文化に移るにつれ、『何かをしなければ何も得られない』という現在の我々が根強く持っている基本観念に変わっていってしまったように思うのです。

。。。次回に続く。。。

(4)その後

。。。前回より続く。。。

 特に集中治療室にいる間は身体を動かすこともままならず、ベッドに縛り付けられたまま色々なことを考えました(それしかすることがないですからね。。)。入院の初期段階でお医者さんから病気の概容(かなり重症であること)を聞いていましたし、実際の自分の容態も冷静に鑑みて本当に『このまま死んでしまうのかもしれないな』と思いました。生まれて始めて本当に死を実感・覚悟した瞬間だったかもしれません。でも、その一方で冷静な自分もいて、死ぬのが怖いとか、家族のことが心残りだとか、なぜかそんな風には思いませんでした。とても冷静に『ここで死んでも大丈夫』『死ぬにせよ生きるにせよ自分にとって良いように物事はなる』という感じで、自分の成り行きを自分で冷静に見守っていました。自分でも不思議なほど冷静でした。これまで語ってきたように、数年に亘って『引き寄せの法則』や『ソース』の考え方を実践し経験を重ねるうちに、『願望のロケットを打ち上げて(自分がどうなりたいか、どうしたいかを宣言して)後は流れるままに任せれば大丈夫』『すべて起こることは自分にとって良いこと』という哲学のようなものが自然と身についてきたのかもしれません(日常生活ではまだまだバタバタした未熟者ですけど。。)。『今日もしこのまま死んだとしても、良い人生だったと思える』そんな感じがしたし、これからも(もし生き延びるなら)そんな風に生きたいと思いました。

 退院して1カ月ほど自宅でコンサルティングをしながら療養し、その後、またアメリカへの出張を再開しました。復帰後最初の出張は、やっぱりとても怖かったです。またあの激痛が出張中に再発したら。。。特に、飛行機の中で起きたらどうしよう、なんて。。。でも同時に、『何が起きても大丈夫。所詮、悪いようにはならない』という不思議な信念・確信みたいなものも自分の中に根付いていて、それでアメリカ出張を再開したのでした。自分には目に見えない魂の世界に非常に優秀な秘書さんが付いていてくれて、その秘書さんは私が知らない未来の出来事や私がやるべきこと、私が好きなことやりたいことなどを、私より良く知っていて私よりうまく完璧にアレンジしてくれている、そんな信念
&信頼が芽生えていることに気付いたのでした。だから、すべてその秘書さんに任せて、彼女(= 私のイメージでは女性なんです)が言う通りにしていれば、つまり物事が起こるに任せていればそれで大丈夫なのだと。。もちろんこの『秘書さん』は、私にだけ特別に付いてくれているのではなくて、誰にでも必ず付いている存在なのだと確信しています。人によっては、それを守護霊と呼んだり、ハイヤーセルフとかガイドとか呼んだりしているものなのでしょう。

 その後、すでに3年以上の歳月がたち、膵炎の再発もないどころか、太り気味だった体重も減り、むしろ以前より健康になりました。コンサルティングも順調に続き、クライアントの数も収入も自分に快適なペースで増え続けています。こうした年月を過ごすにつけ、この『見えない世界の秘書さん』の存在を益々身近に感じ、益々信頼を深めて日々生活を送っている今日この頃です。『見えない世界の秘書さん』の存在、彼女に絶対の信頼を置いてすべて彼女に任せればうまく行くという確信、そしてそれに対する心の底からの感謝、ただ言葉にするだけの表面的な感謝ではなく心の底から本当に湧き出てくる感謝と幸福感、、それが現在の私の人生観の基礎になっています。そういう気付きをくれた膵炎にも感謝ですね。。。。。でも、ホント痛かった。。。あの痛みはもう嫌だ。。。



(4)その後


ここ暫く別のことに夢中になっていて、ブログのアップをサボっていました。その間、何人もの方から応援メッセージをいただいたり、ぺタしていただいたりしまして、ありがとうございました。それに後押しされて、久々にブログアップです。

 さて、前回までにコンサルという仕事にちょっと自信がついてきたこと、そんな中でも時として襲いかかってくる過度なプレッシャーをセドナメソッドなどの手法でコントロールしてきたこと、などを語りました。その後、コンサル活動は少しずつですが益々軌道に載って、現在に至っています。お客さんも収入も自由な時間も仕事をする喜びも徐々に増え続けていると実感しています。まさに好循環の中にいるように感じています。

 そこに至るまでの私の活動はすでに述べたとおりですが、もうひとつ語りそびれている出来事があります。それは、ある日突然『急性膵炎になって命の危険にさらされた』という出来事です。

 コンサルタント活動を本格的に開始した矢先の20101月。忘れもしない正月三ガ日明けの1月4日のことでした。前日からちょっとお腹が張った感じがあって、でもいつもの食べ過ぎと同じような感じで特別な違和感があったわけでもなく、のんびり寝てれば良くなるだろうぐらいに考えて朝寝坊をしてました。昼ぐらいになってなんだか吐き気がひどくなってきたので、トイレに行こうと思って布団から起きだしたとき、俄かに腹部に激しい痛みを感じてその場にうずくまってしまいました。それでも吐き気があるので、なんとか身体を引きづってトイレに行って、そこで腹部にいままで経験したことが無いような激しい痛みが始まったのでした。それはもう痛いのなんのって、きっと刀で腹を切り裂かれたらこんな感じだろうと思えるような、本当に気を失いそうな痛みでした。なんとか家内に救急車を呼んでもらって大きな病院に救急で運び込まれ、急性膵炎、それもかなり重度なものと診断されて即入院。集中治療室で、絶食(一滴の水も飲めず)、大量点滴、絶対安静、24時間容態監視という有様でした。膵炎とは、膵臓から出る管が詰まったり炎症を起こしたりで、本来膵臓から出た後に強い消化液になる膵液が内部で活性化(消化液化)してしまい、膵臓自体を消化し始めて、さらには膵臓が溶けて空いた穴からその消化液が流れ出し他の内臓をも溶かしてしまうというモノ。比較的致死率の高い病気で、私の場合は膵臓に完全に穴が空いて、消化液が他の臓器にまで達しそうなところだったとのこと。そうなると多臓器不全で死に至る可能性が高いとのこと。後で家内に聞いた話では、『あと10分運び込まれるのが遅かったら本当に命を落としていたかもしれない』と言われたそうです。道理で痛いわけだ。。

 それでも運良くギリギリのタイミングで集中治療をしていただいたお陰で、一週間で集中治療室から出て、もう一週間入院生活を送ったところで退院
&自宅療養できるところまで回復しました。お医者さんに言わせると、極めて順調な回復ぶりでラッキーなほうだったそうです。で、その入院期間中、特に他に何もすることがないので、起きて意識がある間はただひたすら自分の人生について考えていました。死ぬかもしれないという状況に自分が置かれているにも関わらず自分でも不思議なぐらい冷静で、何か自分の心の深いところで人生観や意識が変わっていることに気付かされたのでした。。

。。。。。次回に続く。。。。。