JR桜井線の三輪駅で降りて、まずは大神(おおみわ)神社へ。ここは日本最古の神社の一つとして有名なところで、本殿はなく、拝殿から三輪山を拝むようになっていて、つまり三輪山そのものを御神体として祭っています。
三輪山は、この大神神社を抜けた奥の狭井神社というところから登ります。三輪山は、古事記や日本書記に出てくる『大国主神』の魂にあたる『大物主神』を祀る山で、縄文時代のころから天上にいる存在と地上にいる人間が交流をする最も代表的な場所であったと言われています。縄文時代の人々は、今よりずっと霊的な存在と交流する能力が高かったとのことで、日本の各地にいくつか神と交流する山があり、三輪山はその中でも主流な場所のひとつだったとのこと。その他、広島の宮島にある弥山(厳島神社の裏にある山)もそういう場所だったそうです。
まずはここの社務所で登拝の申込みをして、鈴付きのたすきを受け取り、それを首にかけて登拝開始。三輪山はその山そのものが神聖な神殿と見なされているので、勝手に登山することはできません。たすきは山の神に敬意を表するための正装。かつ入山後の写真撮影は禁止されています。なので、このブログでもこれ以降は写真無し。その代わり(?) 三輪山の全容を表した地図を載せておきます。
山頂までは登り約一時間半。老若男女多くの人が登っていますが、結構急です。最初のうち(三光の瀧あたりまで)はそれでもまだ大分余裕があったのですが、それからはかなり急な登りが続いて息が上がります。でも登っていくにつれて、なんとなく周りの空気というか、『気』のようなものが変わっていくような感じがして、とても気持ちがいいです。
やがて中腹の『中津磐座(なかついわくら)』というところに到着して一休み。磐座というのは、神が地上に降り立つ場所とされた岩場のこと。日本に昔からある古新道において、シャーマン達がこの磐座で祈祷し天の存在と繋がった場所ということなのでしょうか。縄文時代あるいはそれ以前の時代において、神は神殿のような建物に住みつくのではなく、自然の中に住む(自然こそが神そのものの体現)とされていたため、こうした磐座で祈祷が捧げられたとのこと。注連縄で囲われた林の中の斜面に大きな岩がいくつもあって、鬱蒼とした感じながら何かピリッとした清廉な雰囲気を感じます。木々に光が遮られてうす暗い中、そこで祈祷を捧げている当時の人が目に浮かぶよう。。。
さらに山頂を目指して急な坂道を進みます。中津磐座までも結構きつかったが、ここから先は更にきつい。。。休み休みやっと、山頂の『奥津磐座(おきついわくら)』に到着。ここもまた、注連縄に区切られた平らな土地に多数の大きな岩があり、とても神聖な感じがするところです。暫くのあいだ腰をおろして、その場のエネルギーに浸ります。自然の発するとても優しいパワーを感じます。縄文時代に私もここで祈祷に加わっていたような、そんな気さえしてきます。
前回のブログにも書きましたが、私は『縄文時代の生き方』にとても魅かれます。稲作を中心とした『何かを得る(食糧など)ためには何か(稲作など)をしなければいけない』という弥生的な考え方よりは、『自然が必要なもの(食糧など)は十分に与えてくれていて、後はそれを感謝して受け取るだけで良い』という考え方を多分に持っていた時代。縄文時代ってそういう時代だったのではないかと思うんです。自ずと自然に対する感謝や敬愛の念が湧いてくる。そんな気分を味わいながら小一時間も奥津磐座に座りこんで、自然のエネルギーをチャージアップしてきました。とても気持ちの良い強力なパワースポットだと思います。今度は秋頃行ってみようかな。。
下山の途中、他の家族連れの人がしている話が耳に入りました。その人が言うに、『ここの木を全部切り取っちゃえば大和平野が一望できる良い眺めになるのにな』って。確かに三輪山の登山道全体が鬱蒼とした林に囲まれていて、ほとんど外の景観はありません。きっと仰る通り、そこらへんの木を切り取ると大和平野一面を見渡せる気持ちの良い景観が得られるんだと思います。が、これってまさに弥生時代以降、現在に至っている価値観の考え方ですよね。つまり、人間は自然を支配する力があって、人間の都合で自然を変えてしまっても良い、という考え方。一方、上述の縄文文化の考え方だと、人間も自然の一部であり自然の力に大きな感謝と敬愛を持っているので、人間の都合でそれを変えてしまうなどということは考えない。。景観を得たいのならば、そこの木を切り開くのではなく、元々景観が得られる場所を探しだす、という考え方をすると思うんです。それは登山道の本道を外れた生きにくい不便なところかもしれないし、高い木に登ったところなのかもしれないが、いずれにせよ木を切ってしまうのではなく、元々自然が与えてくれている素晴らしい景観が得られる場所を探しだす。。。そんな縄文的な考え方にとても魅かれます。より多くの人がそういう縄文的な考え方をするようになれば、もっと人は幸せに生きられるような、そんな気がするわけです。。。