朝日山部屋閉鎖 | 昭和・足立区DAISUKI!

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日本相撲協会は29日に両国の国技館で開いた理事会で、親方の定年に備えて一月場所を最後に閉鎖された朝日山部屋の所属力士ら11人が、2月1日付で元旭富士の伊勢ケ浜部屋と元魁皇の浅香山部屋に転籍することを承認しました。

伊勢ケ浜部屋所属となるのは、3月に65歳の定年を迎える朝日山親方(元大関大受)や桐山親方(元小結黒瀬川)、三段目の磐石、序二段の大天白、大一心、元受と世話人の斎須、床山の床淀の8人。若者頭の白岩、呼び出しの幸司、床山の床誠の3人は浅香山部屋に移ります。

力士らは30日に引っ越しするそうで、97年に部屋を継いだ朝日山親方は「充実感があった」と振り返っていました。70歳まで協会に残ることができる再雇用制度については「利用しない。スイッチを入れ直すのが大変だからね」と話しました。


※朝日山部屋は大正時代末期まで独自で興行していた大阪相撲の名門で、江戸時代から存在していたとされる。
1960年に朝日山部屋から分家独立して大鳴戸部屋を創設していた5代大鳴戸(元幕内・二瀬山)が、1963年5月に16代朝日山を襲名して朝日山部屋を継承し、朝日山部屋と大鳴戸部屋が合併した。16代朝日山は14代弟子から関脇高鐵山、15代弟子から沖縄出身の琉王、直弟子からは小結若二瀬などを育て上げ、トンガ王国出身の若者を弟子として迎え入れて話題となった。
1975年10月に16代目がクモ膜下出血を起こして54歳で急逝し、部屋付き親方である14代北陣(若二瀬、愛知県幡豆郡一色町出身)が17代朝日山を襲名して部屋を継承。しかし1年後に部屋を江戸川区へ移転するに際して、トンガ出身の力士たちは兄弟子である琉王の朝日山後継を求めて抵抗し、1976年9月場所前にはトンガ出身の力士たちは全員廃業へと追い込まれ、琉王も同年11月場所限りで廃業した。
1997年5月場所中に17代朝日山が急性心筋梗塞を起こして55歳で急逝し、ついに自部屋の系統から後継者が不在となったため、1997年5月に同じ伊勢ヶ濱一門に所属する伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方である13代楯山(元大関大受、高島部屋出身)が18代朝日山を襲名して部屋を継承した。
18代朝日山が部屋を継承して以降は、2004年1月場所において17代からの弟子である大真鶴が新十両へ昇進し、2012年7月場所にはモンゴル出身の鬼嵐が新十両へ昇進して、18代朝日山の直弟子としては初となる関取が誕生した。
2011年1月に閉鎖された桐山部屋から幕内德瀬川ら所属力士4人を引き取ったものの、その直後に発覚した八百長問題で德瀬川が協会からの引退勧告処分を受けた。

昔の親方たちは今の親方より健康管理が甘かったのか早死でした。それにしても代々早過ぎで継承が大変でしたが、ようやく大受の親方が定年まで全うしました。しかし関取にはあまり恵まれませんでしたね。


※大受 久晃(だいじゅ ひさてる、1950年3月19日~ )は、北海道瀬棚郡瀬棚町(現:久遠郡せたな町)出身。現役時代は身長177cm、 体重150kg。最高位は東大関。
中学在学中に元大関三根山の高嶋部屋に勧誘されて入門。背がなかなか伸びずに2年近く苦労し、最終的にはシリコンを頭に入れ新弟子検査を受けて合格し、1965年3月場所に初土俵を踏んだ。
体格に合った押し相撲で順調に番付を上げ、4年半で1969年9月場所に十両に昇進した。
1970年3月場所に西十両筆頭で14勝1敗の成績で十両優勝。5月場所に新入幕(東前頭6枚目)を果たすと9勝6敗と勝ち越し、技能賞を受賞した。1971年3月場所5日目、初日から4連敗だった新関脇の大受は初めて横綱大鵬を一気の押しで破り、この場所を8勝7敗と勝ち越し見事殊勲賞を受賞し、上位キラー・三賞の常連に。1973年7月場所には13勝2敗の成績を挙げて史上初めて三賞を独占した。
1973年9月場所に大関に昇進したが、首・右膝の故障にも悩まされ、2度目の角番で迎えた1974年5月場所で負け越し、大関から関脇に陥落。大関在位は5場所に終わり、最高位が大関だった力士では6場所制になってからは歴代1位の短命記録だった(短命大関の2位は増位山の7場所、3位は雅山の8場所)。24歳3ヶ月での陥落は雅山と並んで最年少記録である。
1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落。当時大受は年寄名跡を取得しておらず、出場したものの3連敗を喫し、4日目から途中休場。場所後に現役を引退したまたま空き名跡になっていた年寄・楯山を襲名した。もし空き名跡が無くて廃業せざるを得ない状況に追い込まれていたら、清掃員に転身するつもりであったという。
取り口は広い肩幅を生かし徹底した押し相撲で、「まわしを取ったら三段目の実力しかない」と言われるほどだったが、当時相撲解説者の玉の海梅吉が「土の匂いのする力士」と評するほど押し一徹を貫き通した。
引退後は現役末期から不仲だった師匠高嶋の下を離れ、楯山の株を譲られた元大関清國の伊勢ヶ濱部屋で後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に同じ一門の朝日山親方(元小結・若二瀬)が急逝。師匠代理の後に年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を急遽継承した。
1980年から審判委員に就任し、2009年1月場所まで務めた。その後、2011年4月から再び審判委員となった。2012年1月場所後の役員改選で役員待遇に抜擢され、審判部副部長に就任。定年寸前まで務めた。

華やかな輪島と貴ノ花とともに、押し相撲の大受がいました。茶色の締め込みが印象に残っています。成績に波があり、押し相撲って大変なのだなと子供心に思ったものです。富士桜、黒姫山、天龍、麒麟児らが懐かしいです。
年寄になってからは長い間勝負審判を務めましたね。65歳定年で協会から離れるそうですが、楽しい老後を過ごしていただきたいものです。


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