どの業界でも素人は怖いといわれる。素人は業界のしがらみを知らないため、現実を素直に見つめて物事の本質をつくことがある。

会議のコストパフォーマンスは通常、非常に低い。参加者の人選と議論の交通整理役が会議効率改善の要になる。 ⇒全く同感、一部の人の脱線話を残り大勢が延々と聞き続けるのは無駄が大きい。

月給取りは月給の3倍の収益を会社にもたらさなければならない。自分の給与のほかに管理費やサポート部門の人件費がかかるから。 ⇒ただ、この意識が徹底しすぎると革新的なことがやりづらくなる。

ちょっとした手抜きや自己流が大事故につながるケースが多い。ハインリッヒの法則曰く「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」

誰が事故を起こすかは分からないけれど、事故を起こしやすい人というのは必ず存在する。事故を起こしやすい仕事の仕方をしている人には共通点がある。
⇒その共通点が、仕事を知らない、あるいは自己流で仕事をしていることだと思う

『無事故ほど安いものはない』という意識を徹底させて、仕事の正しいやり方を浸透させる。日々の業務を指示の通りこなすことが一番のリスク予防になる。 ⇒同感
『ケース』を基本ユニットにして様々な精神疾患や症例を紹介する。

うつ病やノイローゼなどの一般的なテーマから尾崎豊やジョンレノンのカリスマシンガーたちの精神状態、さらにレインマンなどの映画、精神疾患に関わる刑事事件の実例などを分析する。

興味深かったのは尾崎豊をケースとした精神分析。 尾崎豊には対人恐怖症、視線恐怖症の兆候があり、その恐怖心がひるがえって『シェリー』などの自己卑下⇒自己承認をテーマにした歌につながっている。 夢と現実の区別が曖昧になっているのも尾崎の楽曲の特徴。『シェリー』の「金か夢か分からない暮らしさ」、『卒業』の「幻とリアルな気持ち感じていた」。さらに現実を「悪いもの」として否定、夢の世界への逃避と続くテーマの歌が多い。 この現実の苦しさと夢の世界への逃避が、当時の若者にとって『心の逃げ込み場』としての役割を果たしたとする。
遠藤自身が大病を患って入院したときに構想ができたという小説。死に直面して人間は初めて生きる喜びを知る。

そのとき、眼に,六月の風が流れるのがはっきりと見えた。病院の中庭に生えている大きな一本の樹木の葉々が突然一斉に風にめくられて白く光った。それはまるで六月の海に無数の波頭が踊っている様だった。一枚,一枚の葉には生命がこもり,風がその生命にこたえて唄を歌っている様だった。明石は飽かず、長い間,その風を見つめた。風が見える。さわやかな風が目に染みる。(何年,こんなことに注意しなかっただろうか)病気をするまでの自分の多忙な生活の中で,こうした樹木と葉と風との微妙な協奏曲も1度も眺めた事がないのに明石は気がついた。いや,目にふれなかったはずはない。目にふれただろうが,彼は取るに足らぬ物として注意も払わず,そのまま、意識の上にものぼせなかったのだ。風が葉を動かしている,ただ,それだけのこととしてしか,考えなかったに違いない。




白血病なら,この名前の患者に、死は確実に、もう一、二ヶ月でやってくるに違いない。そのとき,あの若い妻はどう言う風にこの瞬間に抵抗するだろうか。明石はそう言う妙な好奇心を起こしている自分に気付き,はしたないとおもった。 ・・・略・・・ 明石は直立して,この光景をじっと凝視した。夫婦として結ばれた男女がその片一方の死によってやがて引き裂かれる。その運命に彼等はどうやって,どこまで抵抗するだろうかという明石の疑問に,今,その答えがまるで額縁に収められた絵の様にはっきりと差し出されていたのだ。彼等はただ手を握り合うことによって、しかし手を握り合うとは明石がこの日頃,考えていた結論によれば,「苦しみを分かち合う」事であった。言いかえれば,共に苦しむことだった。




「今,薬を飲んだところだ。もうすぐ,眠ってしまうだろう。そして目を覚ますとすれば」 そこまで言いかけて,彼は一寸,口をつぐんだ。 (本当に目を覚ます事ができるのか。ひょっとすると,永久に目を覚まさぬのかもしれない。)妻の顔をじっと見つめた。もし目をさまさぬとすれば、この妻の顔を見る事ができるのは,今,これが最後かも知れなかった。多くの兵士が二十年前,家族達と駅頭や港で――あるいは歩道で,これと同じような訣別の仕方をしたのである。 一日一日、明石のまぶたの裏でその踏絵とキリストのイメージとが少しずつ変容し、まるで次々と別の角度から光線を当てられた胴の彫像の様に、新しいあたらしい生命をもって甦ってくる。明石が今,掴み取りたいのはあの眼であり,あの眼が自分を踏もうとしている人間達に何を言おうとしていたのかという事だった。 ⇒キリストは当時の踏み絵を踏んでしまった農民たちを決して憎みはしなかった。むしろ慈愛のまなざしをむけたのだろう。




明石はその踏絵の前に経った一人の男を思い浮かべる。彼は切支丹である。もしこれを踏まなければ拷問や死刑に遭うかもしれない。そういう事態に追いこまれて、彼は肉体の恐怖から,この基督の顔を踏んでしまう。いわゆる「転び」になるのである。
だがそうした弱者達(切支丹で生き残ったものは全て弱者だった。転び者だった)は踏絵を苦痛なしに足かけなかったに違いない。自分の一番愛しているもの,自分が一番美しい物を汚すことに悦びを感ずるものはいない。悦びがあったとしてもそれは倒錯的な喜びである。
彼は今まさに,この顔の上に足を書けようとする。足に痛みが走る。鋭い痛みが走る。 その痛む足がべっとりと苦痛の痕を踏絵の板の上に残す。それがこの親指の痕だ。明石はそこまで考えて目をつむった。まぶたから頭にかけて軽いめまいを感じたからである。 眼を飽けてもう1度,踏絵を見る。木にはめ込まれた銅版の基督の顔は無数の足に踏まれたためか凹み、摩滅していた。凹み摩滅したその顔は明石が例えば西洋の宗教画集などでたびたび見た基督の顔とは全く違っていた。それは衰弱し、消耗し,そして哀しそうな眼でじっとこちらをむいてる基督の顔だった。
人間と同じように,みじめで孤独な基督の顔だった。 その眼差しは決してうらんではいなかった。自分の顔に足をかけるものを憎んではいなかった。 (私はおまえの足の痛みを知っている。おまえがそれにたえられぬのなら踏みなさい。私の顔に足をかけるのだ。もし、おまえを愛するものが私と同じ立場にいたならば,その人は私と同じことをいうだろう。踏みなさい。足をかけなさい)