愛の電池9・後編
【亡き娘と息子🌟子供たちが繋ぐご縁】
娘を死産した後、
埋葬されているお寺に通っていました。
何をするでもなく、ただお参りですが。
家族にも友人にも話していませんでしたが、
本当は出家しようと思っていました。
これ、本気で。
そんな時期、
本屋で手に取った瀬戸内寂聴さんの著書に、
“出家は しようとしてするものではなく、
導かれるもの。”
とありました。
その一文に、いろんな意味が集約されてるような気がして考えました。
娘を供養したい思いが80%。
残りの20%は
てっきり生まれたとばかり思っていた人々への説明が苦痛だったのです。
相手は違えど、何回でも同じ説明をしなくてはならないから。
娘が亡くなった事実も受け止めたくなかったのです。
簡単に言えばその苦痛から逃れたかったんです。
しかし、
その苦痛を重ねていくと 事実を認めざるを得ず
少しずつですが、
不思議と気持ちが しっかりしてきたのです。
これこそが、人としての俗世での修行ではないかと…思うようになりました。
なにも楽になろうと思っていたわけではありませんが、
出家は俗世の苦痛から逃れるためのものではありませんでした。
それが分かると、
苦痛ではなく出会いが少しずつ増えていったような気がします。
同じように死産を経験された方との出会い。
いただいた情報のお陰さまで、息子を無事に出産。
元気な息子が繋ぐ、出会い また出会い。
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2年前の法要の帰り道、
何故だか涙が溢れて止まりませんでした。
“生きていたら麗しき女子高生…”
などと思ってしまったからなのか?
いや、いままでも
“生きていたら幼稚園”
“生きていたら1年生”
生きていたら…生きていたら…
と思ったのです。
でも、そう思ってはいても
ただ夢中で日々をこなしていました。
いまは…
落ち着いて自分の人生を考えられるようになりました。
もう1人で抱え込まなくてもいいんだ、と
誰かに背中を支えてもらってるような
そんな風に、心の持ち方が変わったからなのか…
溢れる涙が止まらなかったのは
その時だけでした。
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昨年、私と同じ体験をした方との出会いがありました。
最近になって、その出会いから また学びの機会をいただけそうな気配あり(^-^)。
今後、私はどのように変化していくのか?
自分でもわかりません。
わからないから、
人生は面白いのかもしれませんね。
長文にお付き合いいただき
ありがとう(^人^)ございました。
今回からFacebookの過去投稿ではなく
新記事を綴っております。
今後もよろしければ、
愛の電池にお越しくださいね