説明責任のあり方を問う強制起訴 | 若狭勝オフィシャルブログ「法律家(Lawyer)、議員(Legislator)、そのL字路交差点に立って」Powered by Ameba

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先週の2月29日(月)、東日本大震災の福島第一原子力発電所の事故に関して、
東京電力の旧経営陣3名が強制起訴されました。

マスメディアの報道や一般の方々の反応としては、
「これによって、原発事故発生の真相が明らかになるだろう」
というものが多いように感じます。

しかし、私の経験に照らして結論を先に申し上げれば、この刑事裁判において、
原発事故の発生の真相、全体像がやっと明らかになる、というのは幻想に近い
ものと思います。

そもそも、刑事裁判に、こうした大事故発生の真相・全体像を
全面的に明らかにする
役割を求めることは、場違いなのです。

この刑事裁判では、被告人に過失が認められるかどうか(有罪か無罪か)に
焦点が絞られ、その焦点を浮き彫りにするために、原発事故の発生の真相が
間接的ながら問題にされるに過ぎないからです。

事故発生の真相は、むしろ、本来、政府を含め、
事故を起こした当事者自らが明らかにすべき事柄です。
これこそ、まさに、説明責任です。

そして、事故発生の真相が分からなければ、日本における
今後の原発のあり方を正しく論じることなどできないでしょう。
原因究明と反省がなければ、その後の事業に係る展望・方向性を
語る資格がありません。

そもそも、刑事司法の手を借りなければ、真相が十分に明らかにならないというの
では、やはり、当事者による説明責任が果たされていない、と言わざるをえません。

検察が一旦、不起訴にしたにも関わらず、一般市民で構成される検察審査会が
起訴するのが相当であると判断した背景には、そうした説明責任の不十分性が
大きく考慮されているように思います。