今年の11月28日、我が家の愛犬、柴犬のりんくが14歳と11ヶ月であの世に旅立ちました。
かわいくて、りりしくて、でもおとぼけな顔を見せて、私達家族を本当にたのしい時間と癒やしをくれたりんく。
悲しいときも辛いときも、毎日毎日散歩をしながら、一緒に過ごしてきた、私達の人生に同伴してくれた大切な存在でした。
犬や動物を飼っていない人からすれば、ほぼ15歳なら長生きだったね。
老犬だから寿命だったんだね。そんな風に思われることでしょう。
実際、りんくは、病気一つすることなく、ずっと元気でいてくれ、人間の社会では、今や難しくなってしまった、あこがれるほどのりっぱな老衰で、見事に犬生を生き切りました。
のんびり穏やかにお昼寝しているりんく。
でも、だんだん動けなくなってきて、ご飯もだんだん食べなくなり、お水を飲むことしかできなくなったりんくの様子を見ると、死期が迫っていることを認めざるを得ない状況でした。
「かわいい子だね。本当に我が家に来てくれて、ありがとう。大好きだよ。」
毎日、毎日、足や背骨やお腹のマッサージをしてやりながら、言葉をかけてやっていました。
そして、亡くなる日の昼間もいっぱい、いっぱいりんくの体をマッサージしてやったらり、赤ちゃんのようにだっこして、
顔をくっつけあって、たくさん、たくさん、遊んでやっているうちに涙が止まらなくなりました。
「りんく、本当にありがとう。大好きだよ。お母さんのりんく。かわいいね。」
言えば言うほど、後少しの命がいとおしくて、たまりませんでした。
そして、その夜、私達が晩ご飯を食べた後、水を飲ませようと声をかけ、だっこして水を飲ませている時、急に力がなくなって、ほどなくでした。
後、わずかの命のりんくを最後、看取ってやりたい。
議会が招集され、質問準備をしていたところでしたが、本会議になるとそばについていてやれない。そばにいて、看取ってやりたい。そう強く思っていた私でしたが、りんくも看取ってほしいと願っていたのでしょう。
まさに、議会の本会議が始まる前に亡くなり、家族そろって、みんなでお葬式をしてやり、送ってやることができるように、日程を全てを計らってような、亡くなり方でした。
犬って、本当にすごい。全てわかっているんだと思いました。
思い起こせば、ついこの間、11月15日には、散歩で足を怪我をするようになったりんくに、犬用の靴を買ってやってやり、それを履いて喜んで何とか歩いていました。
でも、その後、急に老いがやって来ました。
死ぬ2週間足らずで、だんだん散歩に行っても遠くまで歩けなくなり、ご飯もだんだん食べられる量が減って、最後は、私達に、しっかりと手をかけさせる時間をつくり、あかちゃんみたいに私達に面倒を見てもらいながら、しかも、それを長引かせることもなく、たっぷりとふれあいと交流の時間を持つように計らっていた、そんな気がします。
今住んでいる家に越してからまもなく、りんくは我が家にやってきました。
だから、私達家族とこの家と犬はまさにセットみたいなもので、だから、りんくが亡くなった後も、そのことがわかっていても、りんくがいないことに違和感があって、まだまだそのことを受け入れられないでいます。
どうしたの?若尾さん。やせたんじゃない。
犬のお葬式をした次の日に、そんな風に言われ、犬が亡くなったのでというと。あ、ペットロスね。と言われました。
そうなんです。まさにその通りです。
簡単に言えばそうですが、そんなに簡単なものではない。
絆が強かったからこそ、この喪失感はとても大きい。
ペットロスの大変さが本当によくわかりました。
でも、みなさん、犬を飼っている人やかつて犬や猫を看取った人は、うちの犬の死の話をまるで自分のことのように聞いてくださり、励ましてくださりで、本当に感謝、感謝です。
励まされています。
ありがとうございます。
励ましをエネルギーにまた、がんばって元気になっていきたいと思います。