中学生の頃、ヒップホップとジャズのダンスチームを組んで、踊っていた
高校に入って間も無く、とある同級生と私はダンス部の顧問である若い女性の先生に呼び出された
記憶が定かではないが、確か私が職員室に呼び出されたときの部活名は「創作ダンス同好会」だった
どこかのタイミングで「創作ダンス部」という部活に昇格したのだが、この文章内では「創作ダンス部」という名称に統一することを先に明記しておく
「3年が卒業したから、ダンス部員がいなくなった。このままだと廃部になるので、ダンス経験のあるあなた達に入部してほしい」
何故先生が、私とその同級生がダンス経験者であることを知っていたのかはいまだに謎だが、私たちは半ば強制的に入部させられた
そのもう一人の同級生こそが、このブログに頻繁に登場してきた「ポニー」という親友だ
ポニーとの出逢いは、ダンス部へのスカウトで職員室に呼び出されたことだったのだ
中学時代のポニーは創作ダンス部、私はテニス部で、ヒップホップとジャズは趣味
何故先生は、私の趣味まで知っていたのだろう

私は、ジャズ寄りにしてもいいのなら、という承諾を得て入部した
2人きりで始まった先輩のいない創作ダンス部
部員となってはみたものの、2人きりではどうにもならないので、あと2人誘って、4人で部活動を始めた
そのうち部員は増え、そこによっちゃんなども加わり、在学していた3年間で一番多いときは30人近くなったと記憶している
何故そんなに増えたかというと、私が田舎には珍しいグラビアアイドルだったからだ 笑 
「同好会」から「部活」に昇格したのはこのときだったかもしれない
1年〜3年までの間、私はキャプテンと振り付けを担当していた
3年になった頃、私のスパルタっぷりと、芸能活動のため毎日の部活動に参加できなくなったこと、そして大人数の女子ならではのやっかいな派閥の誕生で、私は部長にはならなかった
部長になったのは、ポニーでもよっちゃんでもなく、何度かブログに登場している小学生時代からの大親友だった(名前を伏せる意味があるのか?笑)
彼女はあとから入部したのだが、その後、高校で新しくできた仲間を続々と入部させ、派閥を作った
その時はさすがにマジかよ、と思ったが笑、それでも彼女とはいまだに大親友だということを追記しておく
それこそ、中学時代にダンスチームを組んでいた仲間の1人が、彼女だったのだ
大親友だよ、これからも
彼女からすれば、大親友が故に、私が高校入学とともにダンス部にスカウトされ、大所帯を仕切っていることが気に入らなかったのだろう
思春期だもの
それは仕方がない感情だと思う  ドンマイドンマイ
部長決めのあと、よっちゃんはすぐに私の肩を抱きにきてくれたが、私はそれで「揃う」なら万々歳だった
私が部長になっても、先に書いたとおり学校を休みがちだったから、週に一度の部長会にも参加できなかったし
むしろ助かった
部長は大親友、キャプテン兼振り付けは私
ベストだと思った
しかし、思春期の女子たちへ振り付けするのは、たいへんだった 笑
ほぼ全員ダンス初心者だったから「創作ダンスは個人競技じゃないんだよ」というところから話し始めた
そして、私たちの高校時代といえば、コギャル全盛期である
かっこつけることほどかっこ悪いことはなかった
一生懸命、ほどダサいことはなかった
「ちゃんとかっこつけて。一生懸命やって。移動で歩くときもダンスの一つなんだから、かっこつけて」と何度も言ったが、彼女たちにはその精神を持つことが何よりも大きな壁になっていたようだった
しかし、徐々にダンスを魅せることに目覚めてきた部員たち
すると今度はあちこちから、「私ももっと目立ちたい」「私もおいしくして」という女子女子したリクエストが届き、しかもそうリクエストする子たちはツーステップもさまにならない、カウントも取れないような子に限られているものだから、そのリクエストに応えながらパート分けやフォーメーションを組むことが何よりも苦労した
私は3年間センターだったが、自分で創る作品は極力センターパートを短くするように振り付けした
スパルタなくせに、自分は一歩ひいて遠慮してしまうのは、私の短所だ
自分で言うのもなんだが、ダンスのスキルはぶっちぎりで私が高かったのだから、作品のクオリティを上げるために堂々とセンターを張ればよかったのかもしれない
一作品だけ、顧問の先生に頼んで振り付けを担当してもらったことがあったが、先生は、部員たちの心境を踏まえそれぞれに見せ場を作りつつも、私があっさりとセンターになってしまい、また思春期女子たちの心を痒くさせてしまった
なので、結局振り付けはその一作品以外はやはり私が担当することになった
卒業前、最後の大会の作品を創っているとき
全員集合で踊るメインの振りの練習中、「そんな難しい振り付けできない」と数人の部員が抗議しにきたことがあった
しかし私は、絶対にその振り付けだけはやめなかった
この子たちは「できない」とは違う
私に抗議したいだけだと分かっていたからだ
私は、抗議にきた子たちの練習に徹底的に付き合った
オーディションで東京に行く日も、授業が終わってるにも関わらず、部活動にだけ参加しに学校に行って練習に付き合ったりした

最後の大会当日
練習では一度も成功しなかったその一番難しいメインの、つまり「見せ場」の振り付けを、全員が成功した
複雑な振り付けにより、練習では一度も揃わなかった足音が、初めて揃ったのだ
舞台の上で、全員がその足音を聞いた瞬間、もれなく全員の鳥肌がたった
踊り終え、袖にはけるときにはみんな顔をくしゃくしゃにして泣いていた
「初めて揃った!」「すごくないっ!?」「見てこの鳥肌!」
興奮する声に、私は、諦めなくてよかった、と思った
袖で待っていた顧問の先生が、誰よりも泣いていた
そして、「酒井!今までよく踏ん張った!」と大泣きしながら私を抱きしめた
部員たちも、順番に私と握手を交わしたり、抱きしめてくれた
ありがとう、ごめんね、って、みんなが拍手をしてくれた

優勝からはほど遠い成績だったが、それでも入賞できたことが嬉しかった
心が一つになったことが何よりも嬉しかった
表彰状を受け取ったのは、私ではなくもちろん部長
そのハニカむ表情と、みんなの喜ぶ顔が嬉しかった

今から数年前、その部長だった大親友と久しぶりにダンス部時代の話になり、「あの時はごめんね」と言われた
「若菜がぜんぶやってくれてたのに、嫉妬しててさ。派閥作って私が部長になって、ごめんね」
いいよ。そんなの。
「でもね、あんたレベルが高すぎたんだよ。あんな振り付け、無理だから!」
彼女がそう言った瞬間、私たちは爆笑した
なにかが溶けた瞬間だった

私が、女子が大人数揃ったときの怖さ、そして付き合いかたを覚えたのは、創作ダンス部での活動が基盤にあるのだ思う(私は、女子女子した感覚をめんどくさいとは思わないたちらしい)
創作ダンスが他のダンスと違うのは、「できない人を捨てない」ことである
一人が欠けたらフォーメーションを作り変えないといけないのだから
振りも心も「揃う」こと、つまり信頼と絆が大切なのである
それは、私が大人になってからも変わらぬ女性との付き合いかただ

『愛のでたらめ』に、麻子さんがダンス部だったことが書いてあって、初耳で驚いたのだが、それを機に、ふと自分のダンス部時代を思い出し、YouTubeで「創作ダンス」と検索して観たりした
登美丘高校ダンス部の「バブル」という演目の映像を見たら、ものすごく感動した
通常の創作ダンスは、少なくとも私たちの世代の創作ダンスは、全員が髪をひっつめたりして、同じ服を纏うのがスタンダードである
創作ダンスには憂いと芸術性が求められるのが常なのだ
しかし彼女たちは、ふざけたテーマとコスチュームで、表情まで完璧に創り上げて、ものすごくかっこいいダンスをしていた
その「圧巻のパフォーマンス」ともとれるダンスに感動した
泣かせることよりずっと難しいことをやっていた彼女たちに感動した
そこに至るまで、彼女たちも、やはり誰かが犠牲になったり、派閥ができて戦いあったり、怒ったり泣いたり、ありとあらゆるを乗り越えたのかもしれない
笑わせながらも感動させる、そんな彼女たちのダンスに、私は郷愁に浸りつつも、ひたすらに感心した

西原亜希はじめ、私の女友達はみな「姉さんは意外と体育会系」と言う
私も自分でそう思う
それはやはり、高校ダンス部時代の経験からくるものであろう
そして、私の女好きも、恐らくその経験からくるものであろう
更には、ああ、私は学生時代からリーダー気質だったんだな、と再確認した
目立たないよう努めるリーダー気質
なんだそれ
でも、そうだったんだな、きっと

「誰にも必要とされてない」「私なんかいらない」と女の子たちに思わせない友情を、これからも育んでいきたい

現在私は、久しぶりに「女性たちのボス」を経験するべく、あるプロジェクトに取り掛かっている
あの頃よりも、成長していたらいいな、と漠然と思う


明日も良き一日を

ごきげんよう


追記
このブログをアップしたのは昨日
昨日私がブログを書いているまさにその時間、そんな登美丘高校ダンス部の特集がテレビで放送されていたらしい
なんたる偶然
観たかった