一体どうしたんだ、というくらい諸々が失くなってゆく
財布にスマホにPCまで、連鎖するようにあれこれが失くなってゆく
もうここまでくると気持ちがよい 笑

一方でどうしたんだ、というくらい諸々が舞い戻ってくる
再会に次ぐ再会
会いたかった人たちから連鎖するように連絡を頂いての再会はもちろん、そこかしこでバッタリ偶然会ってしまう
もうここまでくると気味が悪い 笑

親友から深夜の電話
『酒井若菜と8人の男たち』を読了したとの報せ
「これ読むと、若菜と話したくなるよね」
まぁ嬉しい
「私はこうして話せるけど、これ読んだ人、きっとみんな話したくなるんじゃない?友達みたいな錯覚がおきちゃう」
まぁ嬉しい
「若菜、生活感ないのにね」
え?
「私は何度も家にも行ってるし、色々知ってるけど、生活感ないよね」
ええ?あれだけ私のプライベートを見てるのに?
「ない。これだけ知ってるのに、生活を見てるのに、生活感、という意味ではまったく感じたことはない。でもさ、文章は特に、それこそブログでも、それ意識してない?」
してる!!
「してるよね」
なんでわかった!!
私は感動してしまった
なんて的確な「読書」をしてくれているのだろう、と
曝け出すのは、相手の心を引き出すため、あるいは文章を書く上で比喩として用いるためで、実は私は生活が見えないようにものっすごく心がけて書いている
面白い角度からの読書感想だった
 
「マギーさんと佐藤隆太くんの章は、私もうんうん、っていっぱい頷いた。あの時、外でご飯が食べられなかったもんね」
そう
私は20代の後半、彼女以外とはほとんど、外で食事ができなかった
それも、その単位は一週間や一ヶ月などではなく、数年に及んでいた
「8人のうち、7人の名前は何かしらで若菜の口から聞いたことあったけど、びっくりしたのは水道橋博士さんの章。あんなことがあったんだね」
うん
「あの時期ってさ、若菜が音信普通だったときだよね?」
え??
「何回電話しても出なくて、一切誰とも連絡取らなくなって、塞ぎ込んでたじゃん」
そうだった
そんな時期だった

現在の私は、再会に次ぐ再会により、人と電話で話しまくったり、直接会って話しまくったり、ごはんを食べまくったりしている

人には歴史があるとつくづく

そして、変わらない人などいないと思う
我々はいつだって、進化しているのだ

道を切り開くのも、閉ざすのも、引き返すのも、私たちに与えられた「自由」という名の選択権だ
無論、立ち止まるのも、迷子になるのも、立派な歩みだと私は思う

くだらない一日もいい
なんもなかったな、という一日もいい
二度と思い出すことがなさそうな漠然とした一日もいい
それでいい
毎日を愛おしめれば、毎日が「素敵」じゃなくたって構わないよ

私の辞書には「いつか」がない、とは私の口癖だ
しかしふと、「いつか」は未来に限ったことではないと気がつく
ならば、「いつか」の過去、そこに確かに居た私を、しっかりと体感として得ていきたい
そうすればどんなに「今」が彩りを持つだろう
そして、どれほど「いつか」の自分が今の自分を支えるだろうか
だから、きちんと労ってやりたい
過去にある「いつか」の私は、ほんとうによく、がんばっていた
未来にある「いつか」の私は、………やはりまったくわからない
私はやはり、「今」に興味がある

桜が咲きました


明日も良き一日を

ごきげんよう