一日に一枚
なんでもいいから写真を撮るようにしていたことがある
最近の話だ

私の高校時代は、カメラが革新した時代だった
まず、プリクラが誕生した
そして、「写ルンです」が大ヒットし、種類も、ノーマル、モノクロ、セピアと広がりを見せていた
「チェキ」がヒットしたのもこの時期だったと記憶している
写ルンです然り、チェキ然り、通学鞄の中にインスタントカメラが入っていない女子高生はいない、というほどの写真ブームだった
右も左もカシャカシャカシャカシャ
いちいちカシャカシャ
へんがおカシャカシャ
コギャルでカシャカシャ
わいわいカシャカシャ
あの頃の女子高生たちは、一体なにを撮りたかったのだろう

それから数年後
旧社名J-phoneのCMを撮影するとき、「このケータイは、写メールと言って、カメラ機能がついてるんですよ」と私は世間よりも早く最新の情報を耳にしていた
インスタントカメラブームやプリクラブームはあったものの、ケータイで写真が撮れるとは当時の感覚からすると驚きの話だった
同時に、ケータイでなにを撮ればいいのだろうとも思った
しかし写メールは爆発的なブームとなった
あの頃の世間は、一体なにを撮りたかったのだろう

その後に、本格的なライカが再注目され、ブームはアナログに向かっていく
更にはデジタル一眼レフのキャノンKISS、ミラーレス一眼カメラのオリンパスPEN、などの登場により、手軽にプロ並みの写真が撮れるようになった
そしてまた最近では、写ルンですが再び脚光を浴びている
時代がグルグル回るのを、体感として得ているが、いずれにせよ、今となっては、カメラは必需品の一つとして、我々の日常に完全に溶け込んでいることは間違いない
今の私たちはなにを撮りたいのだろう

思い出としてよりも、記録としてカメラ機能を使っているような気がしてふと思う
記録したいことって、なんだろう
一体私はなにを撮りたいのだろう

記録して、加工して、インスタグラムに投稿して
それは美しいかもしれないけれど
私もカメラは好きだけれど
「雰囲気」にフィルターをかけ過ぎてしまうことが時々怖くなる
やはり私は言葉が好きだ
言葉で伝えたいし、言葉で伝えてほしい
そんなことを再認識したある日
知人からこんなことを言われた
酒井さんは、言葉を吐き出さないといけない人なの
だから文章に投影することはとっても大事なの
そして、直接的な言葉を直接的な対象に発することも、大事なんだからね
言われてみれば、私は直接的な言葉を直接的な対象に発することが、あまり得意ではない
それを踏まえた上で、迷いながらも発するよう心がけているけれど、それでも届かない場合は、念を押さずに諦めてしまう節がある
そんな時、私は、鍵をかけてフォロワーを0にしている自分のインスタグラムやカメラロールをひっそりと覗く
フィルターをかけた記録たちは、私を安心させる一方、不安にもさせる
それはつまり、言葉がそこにないからだ
だから私は、記録の中に覗く「言葉にならない」想いを、つまりは真実性を、ピンセットで摘まみ出すようにしてみる
それなら最初からフィルターなどかけなければいいのだが、何故フィルターをかけてしまうのだろう

ありのままに
という言葉は好きではない
美輪明宏さんだったか、ありのままというのは、抜きたての大根を土まみれのまま、ドンと客に出して「これがありのままの私です、どうぞ」と差し出すようなものだと仰っていたそうだ
きちんと洗って、食べやすい大きさに切って、器に盛ってお出しする
それがおもてなしだと
私も全く同意である
無論、履き違えなければ、ありのままも一つの素晴らしい生き方になるだろう
しかし、現代に生きる身として、フィルターとありのままを使い分けることができている人がどれくらいいるのだろうと一方で思う
そんなにうまくはできやしない
そのコントロールが効かなくなったとき、ほんとうの意味でのフィルターは外され、泣いたり笑ったりができるのかもしれない

皆さんいかがお過ごしですか?
風邪など召されませぬよう、ご自愛ください

明日も良き一日を

ごきげんよう