藤田さんと共演したのは約7年前。
私は腐りきっていた。
いい役がこない。落ちぶれた。いてもいなくてもいい役だ。役者として必要とされなくなった。どこに行ってもモー子モー子と言われてうんざりしていた。
いじけていた。
だけど、最初の頃の私は、必要とされなくたって、もっとがむしゃらだった。
モー子だって、連ドラのときは一話につき一言二言しか台詞がなかったし、キャラももっと薄かったけれど、どうしたら面白い役になるか、必死に考えて、一生懸命に、がむしゃらに頑張った。
芝居を作りこんでいく、という役作りこそ未だにしないが、キャラクター作りは徹底した。
自声が低く篭っているから、キャピキャピ聞こえるように喉を締めて鼻にかけて響きが高く感じるようにしよう。千葉の話だから、東京のギャルの喋りかたに影響は受けているが、訛ってるんだか訛ってないんだかの“モー子イントネーション”を編み出そう。人ったらしだから、少し語尾を伸ばしてみよう。利き手は右と左、どっちにしよう。髪の毛の色はどうしよう。歩き方はどうしよう。走る時は、きっと両手をぶらーんと伸ばしたまんま走るタイプだ。
がむしゃらに頑張った。
そして“バカな女の子役”は私の専売特許と言ってもいいほどに、当時私の独占状態になった。
よもやあの役にその後こんなにも縛られることになるとは思いもしなかったが(笑)、あのキャラを作ったのは、私自身だった。
そのイメージからの脱却に必死になったこともある。
いずれにせよ、その頃にはがむしゃらにやらなくても仕事のオファーは絶えなくなっていた。
すると今度は、パブリックなところに固執するようになる。
“落ちぶれたくない。いや、私は才能があるから、落ちぶれることはない”
そして、その驕りは次第に過大になってゆき、台詞をうろ覚えの役者を見ると、練習が足りない、とイラつき、スタッフが撮影の合間に世間話をしていると、どうしてもっと集中しないんだ、と心の中で喚いた。
天狗というのとは違うかもしれないが、とにかく、ストイックになりすぎて、周りの何もかもをが許せなくなった。
そして、その真面目さ、神経質さが仇となり、体調を崩して休業となる。
ここからは、何度か過去にも書いているが、復帰しても仕事がなかった。
干されたわけでもなんでもなく、ただシンプルに、仕事がなかった。
ようやく決まった仕事は、休業前にヒロインをやったチームの作品で、そのときの私の役名は「B」。
ヒロインは、休業前まで「若菜ちゃんは演技がじょうずで羨ましいな」なんて言われて、真に受けて偉そうにアドバイスなんかをしていた友達だった。
ヒロインの座はその子に代わり、私は役名のないエキストラに戻った。
せめて目の当たりにしたくなかった。
かつてヒロインだった私の姿を知っているスタッフたちは、みんな私の肩をポンポン、としてくれたが、その優しさが、私にとっては“脱落”の烙印のように感じた。
ーこないだまで、この座組でのヒロインは私だったのに
ーその役は、私がやっていたはずなのに
悔しくて、毎日家の玄関を開けた瞬間に噴き出すように泣いた。
ポンポンってしないで
俺たちは分かってるとか言わないで
アイコンタクトで大丈夫?って聞かないで
若菜ちゃんがいるだけでドラマが引き締まるよとか嘘つかないで
あたしのこと見ないで
愛情が、傷を確かなものにした。
だが一方でその愛情が、私にある転換をもたらした。
私は、せめて現場で愛される役者になろうと、モードを切り替えた。
エキストラ50人のリーダーとして、撮影中も休憩中も必死に現場を盛り上げた。
ー私、このドラマに必要なんだ
自分で自分に言い聞かせた。
ヒロインの子や主役、スタッフたちの愚痴を聞き、励まし、支えることで居場所を見つけた。
ー若菜ちゃんは、このドラマに必要なんだ
という言葉を、素直に喜べるようになっていった。
そして、その私の心境の変化が運よく役とシンクロし、なんと悔しさをぶちまけるシーンが急遽作られることになった。
私は間違いなく、その時点までで演じた役の中では最も感情移入した状態で、「私、悔しかった!!」という感情を表に出した。
カットがかかると、スタッフたちがうわぁーんと声をあげて泣いた。
そして、拍手が起こった。
それが、役者として初めて貰った拍手だった。
あ。これじゃ私すごいでしょ、って言ってるみたいだけど(笑)、そうじゃないの。
うわぁーんってスタッフたちが泣いて拍手を送ってくれてる姿を見て、バカみたいだけど、初めて、作品って一人で作るものじゃないんだ、って、私はとっくに仲間に入れて貰えてて、役者はスタッフに守られてる生き物なんだ、って、気がついたの。
嬉しくてね。
芸能界って、いいとこだな、って思った。
そしてその時私は、頑張っていけるかもしれない、と思った。
そのドラマで、レギュラーエキストラの女の子たちがクランクアップする時に、みんなが揃いも揃って、挨拶の最後に、あと酒井さんがーーと付け加えて泣き笑いで頭を下げてくれるもんだから、私は本当に、生きてて良かったとすら思った(これは自慢)。

その後、少しずつ少しずつ、仕事をやらせてもらえるようになった。
ーおいしい役じゃないけど頑張ろう
健気なつもりで頑張った。
ーまたおいしい役ではないけど
ーこれもいい役ではないけど
言い訳を前置きにして、頑張った。
頑張ったけど、私バカだから、積み重ねていくうちにまた、もう無理なんだとまた思い始めていた。
ーやっぱりだめだ
ーもう無理なんだ
って。
ほんとバカだから。
また拗ねていじけて不貞腐れた。

そんな時に共演したのが藤田まことさんだったのだ。

今も昔も、いただいた役はどれも一生懸命やっている。
だけど私は、言い訳を前置きせずただひたすらに、昔と同じような頑張りかたをしているだろうか。
「B」役よりさらに前の、木更津みたいな頑張りかた、してるかな。
年齢、キャリア、立場に見合った頑張りかた、というのも勿論あるだろう。
初心を忘れないと全うできないことだってあるだろう。
だけど、今年の7月で芸歴20年を迎えた今、もとい、雑歴20年を迎えた今、もう一度、がむしゃらに頑張ってみようかな、と思っている。
だって雑歴だもん。
26年目に入るまでのあと5年、雑歴を積み重ねてみたい。
ま、私のことだ。
すぐ見失ったりするんだろうけど。

拗ねていじけて不貞腐れて、悟ったふりして現場の盛り上げ役になってみたり、人見知りを利用して大人しくしたり、監督の指示に正確に応えるのが役者としてのスキルが問われるからと聞き分けよく言われるがままやるだけだったり、やっぱり自分の感性を諦めきれなかったり、だけどやっぱりだめかもしれないと落ち込んだり、役者という仕事にしがみついてみたり、違う道を選んでみようと思ったり、やっぱり役者がやりたいよと芸能界に片想いをしたり、芸能界にフラれて自分を諦めたり、未練がましいのは分かってるけど諦められないよと思ったり、両想いになってもう死んでもいいと思うくらいの充足感を得たり、八方尽くしたつもりになっていたけれど、私にはきっとまだ、可能性がある。
私には絶対、可能性がある。

“夢中”も“一生懸命”もやったけど、“がむしゃら”だけはまだ再トライしていない。

健康ならなんでもできる
って。
こちとら病弱極まりないんじゃい。
病気を抱えたまんま、できるとこまでやってみよう。
行けるとこまで行ってみよう。
これがほんとの「死ぬ気で頑張る」だ。
もう一度だけ、がむしゃらに頑張ってみよう。

あの大スター藤田まことさんは、最高視聴率64.8%から、キャバレーでの罵声、そして見事な復活、という嘘のような人生を送った。
プライベートも、異常なくらいな波瀾万丈。
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだが、藤田さんの人生は、まさしくそんな感じだった。

役者である私には、現場のスタッフや、かっこいい先輩や友達、可愛い後輩もいる。
役者畑ではなくても、タレントとして育ててくれたテリーさんとの思い出や、文章の世界を開いてくれている博士さんや、ネットで「終わった」と言われまくっていた時にそのネットの中で評価し続けてくれていたてれびのスキマさん(当時素人)や、笑いのスター、歌のスターたちもいる。

私はたぶん、恵まれている。

私はきっと、頑張れる。

あの大スター、藤田まことの逆転劇に比べれば私ごときが何だ。

私も絶対、逆転してやる。

芸歴について考えるとき、私は藤田まことさんの雑歴話を思い出す。

さ、て、と
芸歴を始めるための準備をしようかね。

***

とメルマガに書いて、2015年を頑張ってみた。
どうだったかなと振り返って、よく頑張った、と私は自分に言ってやれる。
そして、私の病弱をサポートしながら現場を共にしてくれる心優しいスタッフたちと沢山出逢い、とてもとても嬉しくて、感謝でいっぱいの一年だった。

そして。
今までずっと、陰でひっそりと私をサポートしてくれていた芸能人の先輩たちとの念願の仕事を、昨年、私は自分で企画し、現在その作業に取り掛かっている。
この企画が通ったとき、私は初めて、この自分の雑歴20年を心の底から褒めてあげることができた。
真面目に生きてきてよかったな。
間違ってなかったんだな。
いや、間違ったこともたくさんあったけど、間違えたり、失敗したりしてきてよかったな、と思えた。
報われた。

もうすぐ、情報解禁できるから、楽しみにしていてください。

くよくよしたって始まる!
水道橋博士さんから頂いたこの言葉を、私は今の企画で体現して、皆さんに証明したい。


ごきげんよう