【水道橋博士のメルマ旬報】2015年夏号より
(私が当時メモしていた言葉が見つかったので、ブログ用に加筆修正してます)


『雑歴』

「芸歴は25年です」
当時、芸歴50年だった藤田まことさんは仰った。

私には、大先輩に根掘り葉掘り昔の話を聞いてしまう癖がある。
“当たり前田のクラッカー”の誕生秘話や裏話、昔の芸能界の伝説となっているような話、何でもかんでも、隙を見つけては、撮影の合間に藤田さんの元に駆け寄り、藤田さんを質問攻めにした。
藤田さんは、自分に興味を持っている当時20代半ばだった私を珍しく思ったらしく、最初は少し怖い感じで、慣れてくるととても優しく、やがて嬉しそうに瞳をキラキラさせて、色々なお話しを聞かせてくださった。

“てなもんや三度笠”で前代未聞の64.8%という最高視聴率を叩き出し、一躍大スターになった藤田さんは、その後の仕事を吟味し過ぎるがあまり、それ以降のオファーを受けられなくなった。
「ここまで落ちるものなのか、と思いました。てなもんやが終わってからの4年間は仕事がなくなってね。営業でキャバレーまわりをしてました」。
“自ら選んでキャバレーをまわっていた”というように一般的には言われているが、実際のところは、仕事を断り過ぎて、オファーがなくなってしまっていたらしい。
止むを得ないキャバレー巡業だった。

それは、大スターの転落だった。

あてがわれた控え室は、一畳程度しかないキャバレーの女の子たちの着替えスペース。
もちろん女の子たちが着替えるときは、外に出される。
いざ客前で芸を披露すれば、おいおいスターさんのご登場だぞ!と揶揄され、落ちぶれたもんだなぁ!と罵声を浴びせられる。
そんな生活が四年間続いた。
「僕は相方もいなかったし、1人で罵声を浴び続けていました。一度頂点に立った後だったから、落差は大きかったですよ」
藤田さんは、てなもんやまでの売れなかった経験と、てなもんや後の売れなくなった経験、両方をした。
登れないことへの苦しみよりも、堕ちていく恥ずかしさ、叩きつけられた痛み、のほうが圧倒的に苦しかったという。

そんな折にとあるドラマ主演のオファーがきた。
主役をやるような地位ではなくなっていた藤田さんは、オファーを訝しく思い事情を聞く。
代役の代役の代役、だということが判明した。
なかなか主演が決まらないとのことで、急遽届いた大きな仕事。
自分へのオファーが“妥協”だったことも分かっていた。
だけど、藤田さんは全力でその役を演じた。
やがてそのドラマは、長年に渡って放送され、てなもんやと並ぶ藤田さんの代表作になった。
それが、“必殺仕事人”シリーズである。

時を重ねると共に藤田さんの過去の栄光を知らない世代と仕事をするようになっても、昔のようにちやほやと優遇されないことがあっても、藤田さんは出演する現代ドラマの、自分じゃない新しい世代の主役を立てた。
その中に潜むほんの少しの少年のような悔しさと、圧倒的な誇りを武器にして、最期まで役者として生きた。
そして、更には“はぐれ刑事”という現代ドラマの主演作でもヒットを飛ばすのである。

「僕はね、芸歴を聞かれると、25年って答えているんですよ」
「どうしてですか?」
「この世界に入ってからは50年ですけど、芸なんて呼べるものを身につけられたのはここ25年程度のものです。だから、最初の25年は、僕は“雑歴”って言ってるんです」
雑歴。
「じゃあ、藤田さんにとって、芸能界に入って一番自分に必要だったな、とか、成長したなぁって思ったのはいつ頃の仕事ですか?てなもんやですか?中村主水ですか?」

「キャバレーをまわっていた四年間です」

ーあの経験がなかったら今の僕はありません
ーあの悔しさが自分を育ててくれました

雑歴の意味が、少し分かった気がした。