あれは、君が35才、私が41才の時であった
いつものように君はピアノの前に座っていた
私は君の奏でるピアノの音を聴きながら、茶革のソファに腰掛けて本を読んでいた
いつピアノの音が途切れたのか
私は気づきもしなかった
小説の中の男女がハッピーエンドを迎えたのは、陽も暮れなずむ頃だった
本を閉じ、ふとピアノの前にいるはずの君のほうを振り返ると、君は鍵盤に手をかけたまま、焦点の定まらぬ目をして、ぼんやりとしていた
どうしたのかと聞くと、君は、ピアノ線が切れてしまいましたと答えた
だからもうピアノを弾くことができません、と

その日から、君は器に米粒を残すようになった
プリンをペチャペチャと音を立てて食べるようになった
トイレのドアを開けたまま用を足すようになった
私に背を向けて眠るようになった
二度とピアノの前に座らなかった

私は、あの日切れたのは、ピアノ線ではなく、君の心の、あるいは脳の、何かだったんだと気がついた
私は君に、無理しなくて構わないよと声をかけてみたりした

ある日の君が庭先で、飼っていた犬の首輪を外しているのを見つけた時、私はどうぞ自由にしてやりなさいの心構えでただジッと黙っていた
君によく懐いていた犬は、首輪を外されても特に逃げることはなかった

“生きたまんま生まれ変われるんだ
って
ずっと思ってて
それは私の希望で
だけど、
生まれ変わりたくもないのに、生きてるのに、生きたまんま無理矢理生まれ変わらされることもあるんだな、って
思ったりするんです”

首輪を持って立ち竦む記憶の君に、そんな吹き出しをつけた日もあった

君が家を出てからしばらく経った
私はピアノの前に腰掛けてみた
カノンを軽く弾いてみた
琴線ーー
引き金ーー
ピアノ線は比喩だと思っていた
本当は切れていないと思い込んでいた
しかし
私のカノンは音がズレていた
ピアノ線は、本当に切れていたわけだ

何をまぁ複雑に

比喩でもなんでもなく、ピアノ線は切れていた

私は、君を想っていただろうか

君に申し訳ないことをした