「忘れてはいけない」「風化させてはいけない」。
そんな言葉が飛び交うようになってから二年が経つ。
その言葉を耳にするたび、少しの違和感と恐怖を感じるのは私だけだろうか。
 
岩手県釜石市。
遺体安置所の一つとして使用されたのは、かつて子供達が体育の授業や部活動で笑顔を見せていた中学校の体育館だった。泥に塗れた遺体が続々運ばれてきては、乱雑に置かれていく。
きちんと並べられる余裕もない。
ただ、置かれていく。
 
その光景はあまりにも悲惨だった。
大切な人達を亡くした遺族達は、やり場のない怒りを釜石市の職員や警察官達にぶつけたこともあったという。その怒りをぶつけられた瞬間は、市の職員や警察官達も同じ「被災者」であることは、忘れられていたのだろう。
彼らだって大切な人を亡くした紛れもない被災者であるにも関わらず、時には人殺しと罵られたりもした。それでも、例えばまだ若い警察官達は、誰も見ていない体育館の裏で少しでも体を綺麗にしようと、毎日毎日遺体を拭き続けた。
そこに見返りや恩賞という言葉は存在しない。
誰もが気狂いしそうになりながら、震災に対する恐怖と怒り、愛する人を亡くしたショックと哀しみ、そして理性と、戦っていた。
彼らには、哀しむ時間さえなかった。
 
この遺体安置所を舞台にした映画『遺体ー明日への十日間ー」で描いたのは、被災者達を救おうとした被災者達の姿だ。
映画は作り物の世界とて、台詞も動きも自由、360度セットなので映ろうが映らなかろうが常に全員が現場にいて自分の役上の仕事をする毎日。
辛すぎて撮影の記憶が曖昧になるキャストも続出するような過酷な環境での撮影だった。
気丈な歯科助手の役を演じた私は、撮影期間中、現場で検死作業を黙々とこなし、家に帰ると奇声をあげてむせび泣いていた。
この役のモデルになったかたも非常に気丈なかたなのだそうだが、当時彼女も陰でこっそりむせび泣いたことがあったという。
想像したらやるせなくて堪らない。
映画の撮影ですら苦しかったのだから、本当の遺体安置所にいたら、自己を保つのはどれだけ難しかっただろう。
 
震災のことを考える時、私は遺体安置所での記憶が、さも2年前のあの日のことかのように思い返される。
3月11日、東京にいた現実の記憶と、それから1年数ヶ月後、遺体安置所で検死作業をしていた撮影の記憶。
この2つがごちゃまぜになって震災の記憶としてよみがえる。
とても怖かった。
もうあんな思いは一生したくない。
 
「私たちには何もできません。だからこそ、このことを忘れてはいけないのです」と言っている有名人の姿を見ると、遺体安置所で過ごした経験があるつもりの私は、いや、そうでなくても、元からそんな言葉を決め台詞のように言う人を見ると少し怖くなる。
人前に立つ人間が自分の無力さを「私たち」と括って世間に促すことが、とても怖かったのだ。
被災地のかたが言うのとではワケが違う。
意味は同じかもしれないが、受け手の捉え方がまるで違う。
忘れてはいけない=忘れちゃうんです、と報告されているように聞こえる。
それが「被災地以外の人」にだけしか届けていない言葉だと果たして自覚しているのだろうか。
自覚した上で提唱しているのなら、それは持つべき一つの意見だと思う。けれど、その方向で提唱するなら、「何もできなくてもいいんだよ」と赦す言葉を添えてほしい。
それが戯れ言でも、理想論でも。
人前に立つ人間には、救おうと、してほしい。
 
もしあの撮影中、誰かに「忘れてはいけない!」と諭されたりしていたら、私はきっと、掴みかかる勢いで「忘れさせて!」と怒鳴り散らし、また泣き喚いていただろう。
 
続く