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過去のブログを読み返してみた。
感情論で書いた記事が一つもなかった。
腹わた煮えくり返るような思いも、しんどくて号泣した夜もたくさんあったはずだけど、ただの一度もそれを勢いで言葉にしていない。

私は以前、自分の孤独や不幸を訴えるような自己顕示欲に満ちた表現者が苦手だった。
簡単だなぁ
と思っていた。
もちろん昔の話。

人が一生懸命表現したものを否定しては失礼だし、どんな形であれ、貫けばかっこいいし、むちゃくちゃに矛盾していても、徹底的にむちゃくちゃならそれはそれで面白いし、何より、その表現に共感した誰かが救われているのなら、それがどんなに簡単な表現でも、価値あるものだと今なら分かる。
まぁ私より青臭いブログもそうそうみないが(ドンマイ私)。
だからこそ、私は私の好みで表現をしていけばそれでいい。

俳優業が人の表現と擦り合わせていくものだとすれば、ブログは自由にもほどがある場。

アメブロを再開したとき、私は、皆さんの生活に微力ながら彩りを持たせられるような表現がしたいと思った。

そして、「眠れない夜に読んでもらえるブログ」をテーマに掲げた。

心がおぼつかないときにだけ欲してもらえるような場所になりたい。
ズキズキしている人が、安心してこられる場所。

私は、自分の辛い思いは絶対に現在形では書かないと誓った。

「腹立つわ」とか「がっかりです」とか、第三者を糾弾するような発言は、傷ついている人には刺激が強すぎる。
その字面だけで、自分が責められた気分になってしまうかたもいらっしゃるだろうから。
私自身、苛立っていることや不調具合をつい書いてしまう可能性がある人のブログは例え友達でも読むのをやめた。
オフィシャルのブログなら、決してブログを捌け口にするような真似はしたくない。少なくとも私は。
あくまで人様に読んでいただくためのブログ。
付け焼き刃な考えか、経験から得た考えかどうかは、文面から勝手に滲むもの。

わざわざ自分の悲しみや怒りはお知らせしたくない。

皆さんのおかげで報われることはありでも、救われることはなし。そんな心持ちでいたい。

だって私は、芸能人だから。

過去ブログを読んで、私、貫いてるなぁと、感心した。
プロだなぁ、と思った、いやマジで(笑)


「された」「言われた」は極力控えたい。
ちょっと受け止め方を変えればいい。
それは、
「されたけど」「言われたけど」
にするのではなく、ただ、
「してた」「言ってた」
と捉える俯瞰性を持つこと。
急に考えを変えようとして、
「してくれた」「言ってくれた」
まで一気に跳ぼうとしてしまいがちだけれど、自己犠牲に苦しむようになってしまうかもしれないから、適度な感じがちょうどいい。

環境を責めず、相手も責めず、
自分すら責めない。

私は、モヤモヤ考えこんだり、気持ちがブレることが意外とない。
粘着性がないし、基本的にはやはり物凄く本能的なので、おそらく「行き当たりばったり」と辞書をひいたら「若菜ちゃん」と書いてあるはずだ。そう、嘘だ。ドンマイ。

失敗しない自信があるわけではない。
せっかちなので、モヤモヤ考えるのがめんどくさいのだろう。
立ち止まりかたを知らないの。

相手に嫌われることが怖くない。
かと言って、嫌われたらスッと引く、ってわけでも別にない。
人の目が気にならないの。
たぶん、愛して願望が低いのだと思う。
だから、将来の不安なども特にない。

それは、自分を諦めたわけではなく、過去の自分の勇姿が、確実に基盤として私の中にあるからだろう。

以前も書いたけど、
無邪気は人を傷つける
と私は思っている。
そして、
それは大概言葉によるものだと。

ところが、
自分が思っているほど、相手は自分のことを考えていない。
ならば、どう思われるかな?と人の視線を気にするのも、ほどほどでいいんじゃないかと思う。

何もかも「どうっでもいいわ!」と思ったとき、私はいらない自分を捨てた。
自分なんざ大したもんじゃない
と、本気で思ったのだ。

以前書いた『ないもの探し』という記事に書いた私のないもの。
あのないもの達は、最初からなかったわけでは決してない。
重たくて辛かったから、必死になって捨てた。
持ったままで生きられたら、私はきっと捨てなかっただろう。
でも、ろくに「生きて」こなかった人間が、どうやったら死ぬってんだ、と我に返って、なりたい自分として生きるために、腹を括って要らないモノを引き剥がし捨てた。
「死ぬ気で」という言葉が、今でも恥ずかしくなくピッタリだな、と思い返せるくらい。
痛かったよ、とても。


綺麗ごとばかり言っている私は、
「本音を言って楽になって」
と言ってもらう機会が多い。

大多数の思い描く「本音」が、いつだってネガティヴなものなのは何故だろう。

私の本音は、夢や希望の中に、楽しい今の中にある。


いつだったか、私自身も、ある尊敬している友人に対し、本音を言って楽になればいいと諭したことを思い出した。
無論それは、愚痴や弱音を受け止めるよ、という私の意思表示でもあった。
友人は、頑なにそれを拒否をした。
友人の本音。
それは、

悪口は言いたくない

だった。
他人の悪口も。自分の悪口も。
人様に聞かせるくらいなら、自分がぶっ壊れてしまうほうが、ずっと楽なのだ。

そんなことを思い出し、友人にまた少し近づけていた自分を見つけて、私は随分嬉しい気持ちになった。

いっぱいいっぱいにならないのか?
ならない。
私は、全てを許せるから。

自分よがりに生きることが苦手なのだと知ったのだ。

私は、喜怒哀楽の怒が圧倒的に欠落している。
バランスが悪い。
本音がネガティブな人が多いのは、それが普通だということなのだろうか。
人の根底にあるものは、悲しさなのかしらと、先月からずっと考えていた。
悲しさが愛に変わるポジティブなものならいいけれど、ネガティブのまま残さないといられないものだったら、複雑だなぁ。
でもネガティブがバランスを整えるために必要な要素なら、それもありなのかもしれないね。

そんなことをラテン系の松永京子ちゃんに話したら「私は全然そうは思わなーい」と言っていた。
フキも京子ちゃんも、根底がポジティブだから、本当に面白い。
結局、人なんてそれぞれなんだ。
根底も感覚もアプローチも。

続く