酒井若菜オフィシャルブログ「ネオン堂」Powered by Ameba-110218_0118~01.jpg

酒井若菜オフィシャルブログ「ネオン堂」Powered by Ameba-110218_0117~01.jpg

酒井若菜オフィシャルブログ「ネオン堂」Powered by Ameba-110224_2252~01.jpg

酒井若菜オフィシャルブログ「ネオン堂」Powered by Ameba-110210_2012~02.jpg


すみません。
ワタクシここのところ全く頭が回りませんで、ブログの更新もままならぬ状態であります。
空っぽブログが多くなったのもそのためです。
空っぽ空っぽと書いていたら「空っぽなんかじゃありませんよ」というメッセージを多数いただきました。
私の言う空っぽは、心を込めずに書いた、という意味です。
説明不足でした、ごめんね。
大好きなアーティストに「若菜さんはサースティー」と最高の褒め言葉をいただいたことは私の自信。しかし私とて「曲がらねば、世は渡られぬ」と思い選ぶこともしばしばで。
そんなわけで、先日「長文も書いている」と書きましたが、何せ頭が回っていないので、書きたかったことは一度忘れさせていただきます。
すみませぬ。
しかし、空っぽばかりでも面目ないので、今日は、数年前、アメブロに来る前にやっていたブログに書いたもので「もう一度載せて」とリクエストがあったエントリーを今一度ご紹介させていただきます。
私自身も確か「今度載せます」と書いたことがあるように記憶していますが、どうだったかな。
ちなみに今日載せるのは2008年の記事です。
加筆、修正しつつ、セルフカバー(←大袈裟)で皆さんにお届けします。
昔からの読者の皆さん、デジャヴじゃないよ。
ただの、タイムトラベルさ。

いってらっしゃーい。


*******



『八方美人』


数年前のある日のこと。
とある人が、とある人について話していました。
「○○さんってね、誰に対しても愛想がいいんだけど、私には何か分かっちゃうんだよね。薄っぺらいだけだって。どんなに表面的に良い人ぶっても、嘘くさいのってなんか分かっちゃうのよね」と。
私は「なんか分かる~」と共感しました。心から。
その日の夜。私はある尊敬している友人にそのことを話しました。
○○さんを侮辱した上に、友人の共感を得ようとした私。
しかし友人はこう言いました。
「良い人ぶる、って、何で良い人じゃないって分かったの?」
「いやほら、なんかさ、嘘くさいんだよ。分かるでしょ?あるじゃん、そういう空気」
「嘘つきなの?」
「え?」
「嘘くさい、って、その人が嘘ついてるの見ちゃったの?」
「見てないけど・・・」
「若菜ちゃんには優しくないとか?」
「優しいけど・・・」
「けどなんか、裏がありそうなの?」
「うん」
「でもその人は、裏を見せないんだ?」
「うん」

「○○さんは、立派な人かもしれないねぇ」

友人は続けました。
「○○さんは、誰かのことを傷つけたわけじゃないんだよ?自分の良いところを見せつけたかったわけじゃなくて、自分の悪いところを見せなかっただけかもしれない。それは、単純に周りへの気配りだったんじゃないかな」
「え・・」

「いつでもみんなに良い顔をするって、なかなかできることじゃないよ」

・・・。
またやってしまった!と思いました。
どうして「へらへらした薄っぺらい人」じゃなくて「誰にでも公平に笑顔で接することのできる強く優しい人」と思えなかったのだろうと。
私は当時、感性の鋭い人に憧れていて、それは人の心の裏を勝手に読んだり、あげ足をとったり、否定をすることで養われていくものだと思っていました。
でも、友人の解釈を目の当たりにした私は、鋭い感性の前に豊かな感性を持てるようにならなければと思いました。
あら捜しがうまい人と笑顔を保つ人。同じパワーを使うなら、後者を選びたいものです。
意識を変えたいと思った私は、あらためて周りにいる感性の鋭い人達のことを頭に思い浮かべてみました。
ほとんどのかたに、鋭さ以前の豊かさがありました。そしてその鋭さは、豊かさの一片に過ぎないのだと知りました。
大前提として、豊かと言えるだけの種類があるから、垣間見える鋭さがピリッと効いて良いスパイスになるのに、私は気づかず、隠し味のスパイスを最高の食材だと思ってメインにして食べて「美味しい」とひきつる。さらにそのスパイスを「召し上がれ」と人に出し、拒絶されると「食べられないの?分かってないよね、つまんない」とか言っている感じ。
空虚・・
はぁ。
良くないのは六方美人とかなのかもしれませんね。

やるからには歴とした八方美人。

特別じゃない人にも優しい人間になりたいです。
コメントに「ブログを見るようになってから人の悪口が言えなくなった。でも元の性格もあって時々言っちゃう。ただ『あ、言っちゃった』って思えるようになった」みたいなのがあって、すごく嬉しかったんだ。
今の私と全く一緒。
なかなか自分を変えるのは難しいですよね。でも、自分が変わっていく過程を自分で感じられるのって楽しいです。
さ。
そんなわけで、今回は、数年前に思った「人を小バカにしたり、迂闊に悪口を言っちゃ絶対にいけない」ってことをこれからも肝に銘じていきたいなって思ったよ、って話をさせていただきましたが、え~、ん~、そうですね~、ん~、あ!
ちなみに悪口に敏感になった私は、人の言葉も気になるようになって、傷つくことも増えました。だけど、それは自分が過去に言った悪口が自分に返ってきているのだと思います。その都度受け止めて反省していけるように頑張ります。難しいけどね。
私は、自信満々で全てが思い通りになっていたあの頃よりも、いちいち泣く鬱陶しい今の自分のほうがよっぽど好きです。
当時より百倍笑ってるしね。
みなさん、今日笑いましたか?悩んでいるかたもいるようだけど、大丈夫かな?
大丈夫だ!
明日は絶対笑えるぞ!
笑えなかったら「若菜ちゃんのブログ暑苦しかったなぁ」って思い出してね。
ストレスが溜まったら私達を笑って。
そういう時のためにも、我々はこの仕事をしているんですから。
笑われてる?
関係ない。それは自己防衛的な解釈に過ぎません。
芸能界は、提供もできるけれど、捌け口にもなれる特別な場所。
笑われればいいのです。
それって誰にでもできることではない。器の大きな人が持てる権利。
私も挑戦してみたいのよ。
感心されるようなことだけ貫くのも美学があって素敵だけれど、優越感を自信にすり替えないとやってられなくなりそうで怖いよね。大切なものを見失う。
私はそこには憧れない。
だけどもしそんな美学の中に自分が立つことがあるとしたら、そんな時は、圧倒的に高い誇りを持とうと思う。全てを許せるようになれるから。

高い誇りは、他人には汚すことができないんだよ。

そして

尊敬と憧れって、違うんだよ。

私が気にしなければいけないのは、誰かが自分の言葉で笑顔になったとき、別の誰かを傷つけなかったかということ。
自分もいつも犠牲になっているからと言って、他人にそれを強制させてはいけない。頑張っているという自負があるなら尚更。頑張っている自分だから耐えられたこと。他人には耐えられないことを知れば、少しの労りや優しさも滲むでしょう。
8人のうち7人を楽しませるために1人を泣かすくらいなら、例え全員が退屈をしたとしても1人を泣かさないことを選びたいものです。
七方美人なんて、もっての外。
私はそう思います。

ちなみに、八方美人同様、悪い意味で使われる偽善者。
これも人が人に勝手にくだす言葉。
偽善者臭くても、自分で自分を疑っても、貫けば「善」になれると思っています。
どっちにしても、思い込みの激しい鬱陶しい私。
でもやっぱり、前よりはいい。

*******

だってさ。
昔からアツいね、私。

いかがでしたでしょうか。
青臭い表現が今よりも恥知らずな感じがして、私は嫌いじゃありません。

これは下書きなので、どう推敲して記事をアップしたのかも今となっては分かりませんが、下書きって一番燃えているときなので、こうして読み返すとなかなか新鮮な気がします


そして、数年ぶりに今読み返してみると、少なくとも「なんか嘘臭い」と言われる側にはなれているような気がしている自分を、随分誇らしく思うのです。

見えているものを確かめようと、わざわざ色眼鏡をかけたりしないでね

明日も良き一日を


ごきげんよう