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表参道のイルミネーションがキラキラしていた。
いつ復活したんだ?
去年もキラキラしてたっけ?
一時期の灯篭みたいなイルミネーションじゃなくなってた。
揉めたんだろうな。
環境問題とか、私が思うに・・・
んー
ま、いっか。

17歳。12月。夜。
その日、私は高校の制服を着て、表参道の歩道橋の上で頬杖をついていた。
栃木県にある高校に通っていた私は、学校を早退して原宿にオーディションを受けに来ていた。
その帰り道。
当たり前だが、同じ制服を着ている人間など周りに見当たるはずもなく。それどころか、一人で制服を着ている女子高生すら、見当たらない。
賑わいをみせる煌びやかな街を、数え切れないたくさんの大人達が歩いている。

「あー、きれいだなぁ」

と、思った。
これが有名な表参道のイルミネーションか、と。
平日の夜、私が今大都会原宿にいることなど、栃木にいる同じ制服を着た人達は想像もしていないだろうと思った。
ほんの少しの優越感と、それを圧倒的に越える「こんな優越感いらない」と思う気持ち。
一瞬戸惑った。

私はどこに行くのだろう。
表参道を行き交うたくさんの人間のうち、誰も知っている人がいないことが不思議だった。
誰も知らない、というのは当時の私には楽な現実だったような気がする。
栃木に帰るのをやめて、このまま東京に住むにはどうしたらいいかしらと考えたりもした。
早く東京という街に住んでみたかった。
「東京に住んでいる人には、このイルミネーションはどう見えているのだろう」と考えた。
東京に住んだら感覚がどう変わるかを知りたかった。
「10年後、私はこの街の住人になっているのだろうか」
「このイルミネーションを当たり前のように見ていたりするのだろうか」
と思いを巡らせた。
ワクワクこそしなかったものの、少しドキドキした。

10年以上経った今日。
とうに東京の住人になったはずの私は、表参道のイルミネーションが目に入った途端に「ワァ!」と歓喜の声をあげた。
あまりにも新鮮に「きれいだなぁ」と思っていた。

学生時分、頬杖をついていたあの歩道橋を、下から見上げた。
一瞬、制服を着ている私がそこに見えた気がした。
あの頃の私は、自分で言うのもおかしいけれど、物凄く大人びた性格で、全てにおいて真摯すぎた。
今みたいに適当に目を瞑れる性格ではなく、とにかく目を開けたまま堪える力に関して圧倒的に長けていた。
何に堪えていたのか、今となっては思い出せないけれど、私は歩道橋の上の「あたし」に想った。

「だいじょうぶ」

と。
「その“あたし”が好きだ」と。
本当に思ったんだ。
17歳の私は、30歳の私からみたら、あまりにも眩しくて、魅力的だった。
別に今の自分を否定するわけじゃない。
今は今でいい。
当時買い方が分からなかったスタバも買えるようになったしね(地味)。

ただ、あの頃の自分があまりに不憫だった。
だけど一方で、あまりに強かった。
強すぎて、不憫に思ったのかもしれない。
よく頑張っていたと思う。
とはいえ、一番辛い思い出も、一番楽しい思い出も、17歳ではまだ経験していない。
ここから、たくさんのことが待ち受けている。だけど、

「あの子なら、堪えられるな」

と思わずにはいられなかった。
確信し、私は東京の自宅に向かって歩き始めた。
19歳で上京して11年。初めて、帽子を脱いで表参道を歩いた。
ずいぶん時間をかけて、家まで歩いた。
帽子をとったら、こんなに視界が広いのかと驚いた。
街中はずっと前を向いて歩いた。一応私でも「あっ」と指を差されたりするけれど、今日はそれが随分誇らしく思えた。
背中に、歩道橋の上の私を感じていたからかもしれない。
知っている人が、表参道にはたくさんいるのだと、彼女に教えてあげたかった。
ネオンの少ない住宅街に入ってからは、ひたすらに空を見上げて歩いていた。看板にぶつかったり、停まっている自転車に激突したりもしたけれど、それでも帽子なしの広い視界が嬉しくて、ずっとずっと上を向いて歩いていた。
くだらないでしょ。
だけどね、本当に気持ちよくてね、最高だったんだ。
私のこの感情に共感されるかたはいらっしゃらないことは承知の上。
興味のあるかたは、毎日11年つば付きの帽子を被ってみてほしい。
そしたらきっと、この喜びをご理解いただけるに違いない。

こんなこと、あるよね。
みんなが当たり前にできることができなくて、自分を蔑んで、人を蔑んで、それを通り越してしまったら「もう、なんかいいや」と面倒臭くなってしまうこと。
その時得られるものって、人には理解されなくても自分にとってはなかなか素敵なものだったりして、全てはそれを得られる権利だったのかと気がつく瞬間。
コンプレックスとか、トラウマとか、全く出口の見えないものが、いつか何かを得られる権利だと思えたら、少しは楽しいかな?
どうでしょうか。
傷ついた皆さんにでっかい幸せが訪れますように。
どうぞ、自分に愛をあげてください。

明日も良き一日を


ごきげんよう