優しさについて考える時、私はいつもその人を思い出す。
出会った頃は、嘘つきな人だと思っていた。
「偽善者だね」と本人に直接言ったこともある。
「本音を言って楽になればいい」と諭すように言ったことだってある。
その人はいつでも笑っていて、私は心からバカみたいだと思っていたし、時間の経過とともにバカじゃないことに気づいてからも、それでも嘘くさいと思う気持ちは変わらなかった。

呆れるほどに良い人。

バカにされて笑われて、悔しくないのかと聞けば「笑ってもらえて嬉しい」と微笑み、
そんなに全部を受け止めていたらあなたの心が壊れる、と心配すれば「人を傷つけるよりは、壊れたほうがずっといい」とあっさり言ってのけ、
悪口を言って共感を求めたときは「分からないなあ」と途端に惚け始め、
「どうして私はこんなに嫌なやつなんだろう」と泣いて話せば「そんなことはない」と強くきっぱりと言い、
当時を振り返り「私はあの頃嫌なやつだったね」と笑い話をしようとすれば「忘れちゃったけど、良い奴だったよ」と嘘をつく。
「優しい人になりたい」と言えば「元から優しいじゃないのよ」と笑い、
「あなたのようになりたい」と言えば「すっかり越されちゃったんだけどな」と飄々と言い放ち、
「あなたがとても好きだ」と伝えれば、大テレしながらも「どこが?ねえどこが?」無邪気に聞いてくる。
「いつも迷惑をかけてごめんね」と言えば「そんなこと思わせて、自分はまだまだだな」と落ち込み始め、
「いつもありがとう」と言えば「こちらこそありがとう」と目をキラキラさせる。
「自分を意地悪だと思ったことがあるか」と訊ねれば「しょっちゅうあるよ」と私を安心させ、
「どうしてあの人はあんなに意地悪なのか」と訊ねれば「優しさで包んであげればいいよ」と当たり前のように言う。

その人の人生のテーマは「優しさ」と「温かさ」。
それを聞いたと同時に、世の中で一番強いのは、優しさと温かさだということを、私は知ることになった。

真似事でもいい。一生懸命やれればいい。
偽善的でもいい。そのうち偽の字は取れるから。

その人も、最初は偽善から始めた。
曰く、昔はとても嫌なやつだったそうで、信じがたいが、あるいはそうだったのかもしれないと思えなくもない節が確かにある。
冷たさや意地の悪さを経験した人しか知らないはずの優しさと温かさを、その人は持っているから。
天性の優しさもあるかもしれないけれど、占めてるパーセンテージがかなり低いことは間違いない。

その人は、走り続けたうさぎ。
私は、昼寝をした亀。
悪口を食べ過ぎて、気づいたときには体も心も重くなっていた。
今さら亀がどうあがいても走り続けたうさぎには叶いっこないと失望したが、おかげで諦めもついた。つもりだった。
諦めて、自分には昼寝が似合うと言い聞かせた。
昼寝から目を覚ますと、ずっと前を走っていたはずのうさぎが目の前にいた。
「どうしたの?」と聞く亀に、うさぎはもじもじしながら答えた。
「あのね。一緒に走ってくれない?」
「なんでよ。足手まといになるだけじゃない」
「んー、でもさ、疲れちゃうんだもん」
「あんなに走っといてよく言うよ」
「お願いだよ」
「だから、なんで?私を助けようとしてるのみえみえだよ」
「違うよ。話してると、楽しいんだもの」
「嘘ばっかり」
「それに。私が疲れたら、キミの甲羅に乗せてほしいんだよ。お願いだよ」
仕方ないな、と亀は重い腰を上げた。

言葉は嘘でもかまわない。
すごく嬉しかった。
私は、のそのそと動いている自分が嫌いじゃない。
ただ、その人をずっと見ていたいから歩けているのかもしれないな、と思うと、ずいぶん純粋になってしまったものだと、可笑しくなる。
シニカルな自分がどこかへ飛んでいってしまったようだ。

人なんて、大抵優しい。
上手く表に出せないだけだ。
そうでないなら、独善のすれ違いが起こったのだろう。
摩擦に心を痛めたことが、私自身何度かある。

いつだったか、その人から「雨ニモマケズ」を丸暗記したから聞いてくれ、という意味不明の電話がかかってきた。
言わずとしれた宮沢賢治の秀逸な走り書きであり、私も例にもれずこの文章が好きで、このタイトルで以前に記事を書いたことがある。
意外と長いその言葉を延々と聞きながら、私はその人のことを思っていた。
雨にも風にも、この人は何度も負けてきた。
ちゃんと負けて、勝者を心から称え、家に帰って一人泣き、勝者の優れた部分をしっかり学び、立ち上がった人なのだ。

ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ。
そのフレーズを聞き終えた瞬間から、数年。
今ではその人に会うこともなくなった。
恐らく、これからも会うことはできない。
だけど、その瞬間から今日まで、一日も欠かさずに思っている。
明日もきっと思うだろう。
あなたのように、私もなりたい。と。


ごきげんよう