酒井若菜オフィシャルブログ「ネオン堂」Powered by Ameba-100304_1841~01.jpg


先日箱根神社に行ったとき、縁結びのお守りを見つけた私。
手に取ってみると、もれなくペア。
・・・・。
一つは自分用。一つは相手へ。
結ばれたい相手に渡し、互いに持つことで願いが叶うのだとか。
良縁を求めようも、相手がいないことにはしようがない。
一緒に参拝した京子ちゃんに
「京子さんよ、縁結びってやつぁ一人じゃだめなのだろうか。
今はともかく『いずれ』を求めてお守りを持っちゃいけないのかい?
何故ペアしかないのだ。
渡す相手がいる時点で、大概は想いが通い合っているのではなかろうか。大体そこまできたら半分は叶っているようなもんじゃないか。あとは自力で頑張れよ、って話だろう。
京子さんよ、分かってくれるかい?
あの人と縁がありますように、じゃなくて、良い人と縁がありますように、って、出会うことを待つための『縁結び』って捉え方だって時にはあろうもんじゃないのかね」
とはさすがにカラまず。
「へぇ~。やっぱこういうのって、相手ありきなんだねー」
と余裕な雰囲気で言い放った私。
ペアだと思っていなかったから、一個だけ手に取った時にもれなくもう一個がぶらーんとついてきて、内心ものすんごく慌てたのだけれど『敢えてぶらーんとさせてますよ感』を出そうと試みた。
が、バレていたようだ。
つい先日、京子ちゃんがとある別の神社で、ペアじゃないシングルの縁結びお守りを買ってきてくれました。
や、優しい。
勿論それからは毎日持ち歩いています。
そして今日。
某ドラマのリハーサルをしてきました。
数日前からドキついていた私。
緊張で台詞が全部とんだらどうしよう、と思いつつリハ室へ。
が、なんだかいつもと気分が違う。
ドキドキしているけれど、それを上回る誇りと安心感。
異常に平静を保っている。
心中至って穏やかだ。
それではなんなのだ、このドキドキは。

家に帰って気がつきました。
私のドキドキは、緊張ではなく、ときめきだったのです。
この作品の世界に、恋をしてしまっていたのです。
数日前からドキドキしていたのは、不安や心配ではなく、
会いたくて会いたくて仕方ない、恋心だったのです。
そして今日やっと会えて「やっぱり好き」と安心したのです。
でもまだ始まってもいない。言うなれば、今日告白をしたところ。クランクインをしたら、途端に不安が襲ってくるかもしれない。でもそれは、付き合い始めたらどんな完璧な恋人にでも抱く謂わば通過点、儀式のようなもの。
縁結びお守り、早速効果アリ。
ありがと~。
ちょいと私、しばらくこの作品に尽くします。

『芸能界に入って成功したい、なんて、宝くじに二度当たるようなものだ』。
とある著名なかたがおっしゃっていました。
何となく芸能界に入っちゃった人ほど成功しやすい傾向があるのは何故?と聞かれてのお答えだったように記憶しています。
「何となく芸能界に入っちゃった人は、良い役と出会ったときに初めて良い演技がしたい、とか成功したい、と思い、叶える。それは宝くじを一度だけ当てるのと同じ。だけど、芸能界に憧れていた人は、『芸能界に入った』という時点で宝くじを一度当てたようなものだから、更に成功を求めるのは無謀に近い」みたいな。
私はそのかたがとても好きですし、その意味もすごく理解はできるのですが、正直、納得はしていません。
だって、私は今、どうしても入りたかった芸能界に入って、演じたかったような役を演じているから。
それに、夢や希望を持った人にしか、それを叶えることはできないから。
夢や希望を持たない人が、一体何を叶えられるというのだ。
連敗続きでも構わない。
私は宝くじを買い続けます。

なにで読んだのか、または観たのかは忘れましたが、ある夢を持った人が、最後までそれを叶えられなかったとき、友人に「運がなかっただけだよ」と慰められました。その人は、
「努力が足りなかったんだ」
と答えました。
「違うよ。あなたは精一杯努力した」
と友人は労わりの言葉をかけました。優しさだったと、私は思います。が、その人は言いました。
「夢を叶えたくて、必死に努力してきたんだ。これだけ頑張って負けた理由が“運”なんて、納得できるものか。そんなもので片付けてほしくない。せめて、努力が足りなかったのだと思わせてくれ。そうすれば、ほんの少しは仕方ないと思える」
「・・・」
「そう。努力が、足りなかったんだ」
会話は完全に私が作りましたが(アハ)、こんな話、ありましたよね?なんだっけ?
ま、いっか。
これは叶わなかった例ですが、私は、ここまで努力ができる人間は、決して運や環境のせいにしないのだな、と思いました。それだけ脇目もふらずに打ち込めるものを見つけられたこと自体が、幸運なのかもしれませんが。
ともあれ、叶わなくても尚「努力が足りない」と思うことが、悲観ではなく、むしろ僅かでも救いになる、という境地に達していることに、私は驚愕しました。
そして、今後自分を鼓舞するための取っ掛かりとして、私に「努力を完全にやり尽くした先に絶望はない」という考え方をもたらせてくれました。
突き抜けてしまうほどの努力をする前に、大抵諦めてしまうから絶望的な気持ちになってしまうのではないかと。
おんなじ保険なら、「どうせ」と諦めるより、「僅かな希望になる」に掛けたいものです。
惜しみない努力。
そんな言葉は無用です。
やりたいことがあるのなら、努力をするのは当たり前だから。
宝くじだって、買わなきゃ当たらない。
夢だって、動かなきゃ叶わない。
棚ボタ的な成功なんかいらない。
自分の手で掴んでやらぁ。

サザエさんでさ、あ、話変わりますね。
全然関係ないけど、サザエさんでね、波平さんが、
「ユーモアは、人を楽しい気持ちにさせるためのものだ」
みたいなことを言っていました。
素晴らしいことをおっしゃいますよね。
何かを小バカにするようなユーモアはすごくいや。
誰かを楽しませるために、別の誰か(特に身内)を小バカにしちゃいけない。
最近分かってきました。私が一番イヤなことが。
それが「小バカ」。

プリオールが言っていました。

幸福になりたいという人だったら、人を喜ばすことを勉強したまえ

と。
そして、司馬先生は言いました。

やれば、思わぬ条件が湧いて出て、行動を有利にすることがあるのだ。
勇気と決断と行動力さえ持ち合わせておれば、あとのことは天にまかせればよい。

と。
そして、葛飾北斎。

五年でもいい
五年の命があれば
本物の絵描きになってみせる

これは、北斎が、晩年、余命を先刻された時に言った言葉です。
ちなみにこの頃北斎は、既に絵描きとしての地位も名声も、そしてそれに見合う実力も、手に入れていました。言うまでもなく、圧倒的な才能ありきですが。
でも、こんなことが言えるなんて凄いッ!
きっと北斎は、才能がそれなりだったとしても、ある程度の実力と地位と名声は手に入れていたでしょう。
でも、それを北斎が求めていたかどうかは、別。

今日のブログは、この3つの言葉を紹介したいがために書きました。
前置き長いね。
ってか、だったら偉人の言葉だけ載せればいいのにね、このブログ。
失礼をば。
ま、いっか。

明日も素敵な一日を

ごきげんよう