『教科書に載るような小説を書いた作家の作品は面白い』。
これ、絶対です。
後世に渡って読み継がれるには、それなりに理由があるんですな。
でも、そんななんとなく内容を知っている名作に限って、ちゃんと読んだことがなかったりするんですよね。
それってなんだか勿体無い。
私が芥川龍之介や太宰治に中原中也、宮沢賢治に高村光太郎など、新刊ではなくこの辺りを読むのはこういう理由からです。
だけど、新刊も読みたい。
だって、芥川さんや太宰さんの時代に生きていた人は、彼らの作品が出た時の「感覚」を味わえていたのかと思うと、羨ましいんだもの。
「読んだ?羅生門」
「まだ。面白いらしいね、どこ行っても売り切れでさ」
こんな会話、してみたい・・・。
そういうことでいくと、最近では村上春樹さん。
数十年後に孫とか近所の子供たちに聞かれるでしょう。
「1Q84出た時、すごかったの?」
って。そんなことを想像するだけでたまらなくワクワクします。
今の時代も小説界は面白い、と。
あ。
話を戻します。
タイトルにもある太宰治さんの小説。
最近また読み始めました。
読まれたことのないかたは、太宰作品というと、暗くてウジウジした粘着質、という印象を持たれるかたが多いのではないかと思われます。無論、代表作の『人間失格』のインパクトがそうさせているのでしょう。が、太宰作品の醍醐味はそこではありません。
ずばり、ユーモアにあります。
ユーモアあってこその太宰治なのです。
だからこそ、辛さや苦しさ、虚しさが、一層際立ち、読者の胸を打つのです。
ただただ「可哀想」だけを描いていたら、共感できない。
生活の中には喜怒哀楽があって、だからそこには必ず、楽しいことや恥ずかしいこともあるし、くだらないこともある。むしろそういう、くだらなさという一見不要なことが、日常には不可欠だったりするのでしょう。
その中にポカンと浮かぶ「可哀想」、つまり哀しい思いが「あ、私も」という感想に結びつき、多くの人に共感と教訓を持たせてくれるのです。
そんな太宰治の数ある名作の中で、ユーモアなしで描かれた異彩を放つ作品があります。
それが、かの有名な『走れメロス』。
(人間失格は、暗いけど多少ユーモアを匂わせる部分もあるので)。
あらためて読むと、すごい。
ご存知かと思いますが、ざっとあらすじを言うと、メロスが濡れ衣を着せられ、悪い王に処刑を言い渡される。メロスは三日間の猶予を貰って、その期間、友人のセリヌンティウスを身代わりに置いてゆく。三日後、メロスは帰ってくる。
殺されることが分かっていながら帰ってきたメロスと、帰ってくることを信じたセリヌンティウスの友情話。そして2人の勇気と強い絆。
ざっと言うとこんな感じ。
私もこのあらすじは知っていたので、それで走れメロスを知っていた気になっていました。
でも、王が人間不信だった、ということは知りませんでした。
そして人間不信の王が、三日間の猶予をメロスに与えていたということ。
そこに太宰治は、ちらっと余韻を残してくれるのです。王を単なる悪役にすればいいものを、なぜ人間不信とわざわざ書くのでしょう。かと言って、太宰が王側に立つことはありません。誰もが王になる可能性を秘めているってことなのかと解釈してみるも、心が苦しくなってもやもやしてしまう。妙な余韻だ。んー。うーむ。だけど、それが太宰作品の特徴なんですよね。
そして、メロスが実は、処刑場に帰ることを1度だけためらったこと。セリヌンティウスもまた、メロスが帰ってこないのではと1度だけ疑ったこと。これも知りませんでした。
あらためて読むと、こうしたあらすじには出てこない発見があります。
太宰作品の中でも極めて異質なこの作品に、私はひどく感銘を受けました。
読めば読むほど心を鷲掴みにされる太宰治の走れメロス。
恥ずかしがりで、だからこそユーモアなしでは成り立たない、いや、ほんとにそれが醍醐味だけど、そんな作品群の中でド直球で『走れメロス』を書いた太宰治に、優しさと強さと儚さを感じたのは
私だけでしょうか。
いやはや。
まいりました。
太宰先生。
(あ、本の解釈は人それぞれですのでね、あしからず)
ある尊敬している友人と、久しぶりに電話で話しました。
私はその友人に出会って性格が変わりました。人や作品の悪口を言わなくなったし、自分を好きになれました。
友人が珍しく「グチでもいいよ。聞かせて」と言ってくれたので、私は甘えさせてもらいました。
友人は、一通り話を聞いてくれた後、カッカッカッと大笑いしました。そして言いました。
「お前、悪口言うの下手くそになったなぁ」
そして、
「良かったなぁ。若菜ちゃんは、真っ直ぐ生きようとしてるな。だからぶれているようで、ぶれていないんだ。道は真っ直ぐじゃないよ。でも真っ直ぐじゃない道を真っ直ぐな心で自分の足で歩こうとしてる。イヤな思いをしたときに、本質が見えるんだよ。若菜ちゃんは、もうグチと否定だらけだったあの頃とは違う。確認できて良かったなぁ」
すごい友人に出会ったものだと思わずにはいられませんでした。
これからも憧れ続けていこう、と心から思いました。
とは言っても、若干グチっぽくなっていたのも事実です。
だけど、そんな私に3人の友人からメールが来て、全てに「ありがとう」という言葉が入っていました。
まだまだいける。
人は変われます。
変われないのは、努力に疲れて諦めるからです。
私はあの頃の卑屈な自分とは決別したんだ。
過去の自分を否定しちゃいけないのかもしれません。
だけど、私は否定するに値するほどイヤな奴でした。
戻りたくないのです。
私が欲しいのはただ1つ。
優しさです。
そして、幸い私の周りには手本にしたい友人達がいます。
ポニーが、当たり前のように会社を休んで私の家に泊まりにきてくれたことがありました。
他の友人達が、自分も大変なのに「酒井ー。だいじょぶか」と言ってくれます。
だいじょぶ、なのです。
あなた達がいてくれる限り、私は絶対に、だいじょぶなのです。
そしてこう思うのです。
友人がメロスになった時、私は迷わずセリヌンティウスになってみせるのだ、と。
随分自分よがりなブログになってしまいました。
すみませぬ。
みなさんお元気ですか?
私は元気です。
ちなみに、栃木弁で「大丈夫」は「だいじ」と言います。
大丈夫?と言ってくれる人は、必ず大事な人なのだと、思いました。
明日も働きまっせ。
明日はみなさんが、カッカッカッと笑えますように。
ごきげんよう