酒井若菜オフィシャルブログ「ネオン堂」Powered by Ameba-091109_1552~01.jpg

浮世絵展面白かったなぁ。
世界中の芸術家たちの原点が日本にあることを再認識せずにはいられませんでした。

さ。
最近立て続けに「本能で生きたらいいのに」というようなことを言われました。
確かに。
最近の私は、ちょっと理性が働き過ぎているような気がします。
基本的に普通に優しい人になりたくて、そつのない平均点人間になりたいと思っている私。
でも「優しい」ということは、普通でも平均でもないのかな、と思ってきたりもしています。
普通や平均は、意地の悪さや雑なプライド込みだったりするのかしら。
優しいは、特別なことなのかな。
もしそうなら、普通も平均も諦めてもいい。
優しくなりたい。
とにかく優しくなりたい。

私の本能は、どんなのだろ。

優しい、ってすごいから分からない。
時に全部を超えるから。

私にとって「優しい」はこれからしばらくは、特別なものになりそうです。
いつか「特別」から「当たり前」になれた時、私はきっと、すごい人間になれる。
きっとなれる。

昔、ある尊敬している友人と、画家のレオナールフジタについて話をしたことがあります。
壮絶な人生を送ったフジタ氏。日本に絶望していた彼の元にピカソが訪れたことで救われたという例のエピソード(知らない人、ごめん)。
私は、やっぱりフジタ氏はすごいんだ。ピカソに認められたくらいだもの。
と思いました。
いやたぶん、このエピソードを知る人なら、大抵の人がそう感じると思います。
しかし友人はこう言いました。
「やっぱピカソはすごいな」。
友人は「結局すごいのは、ピカソだよ。ただ訪れただけで、『人を救った』と言われるんだ。フジタ氏の凄さが、ピカソという名前だけで自分たちに伝わってくるんだよ。自分はやっぱり『その時、現れたのが・・・』って言われるピカソ側になりたい。あ~すごいなー」と感慨深そうに頷きました。
自分がいかに凡人なのかを知らされたような気がしてキュっとしました。
友人は、いつだって「最高に出会うことを求める」のではなく「最高になる」ことを考えているのです。
私は聞きました。
「天才は天才に憧れるのかな?」
友人は言いました。
「分からない。でも、天才って異常なストイックさを持ってる人が多いよね。それって、時に人を傷つける。いや分からないね、本物は。普通なら傷になるものも本物の天才は、傷つけるつけないのレベルを超える圧倒的なものを持っているのかもしれないし。自分はね、天才に憧れる気持ちもあるけれど、もし仮に人を傷つけないと天才になれないのだとしたら、天才になんかなりたくない。ピカソになれなくても別にいい」
「天才が確実に手に入るとしても?」
「若菜ちゃん。天才って、決して一番じゃないよ」
「ん?」
「優しくなりたいの。自分にとって一番難しくてすごいのは、優しい人だから」
私は、何だかとても複雑な気持ちになりました。
天才よりも優しさを選ぶ友人に、ある種の天才性を感じたからです。
優しさの天才。
そりゃなんとも埋もれがち。
だけど、少なくとも世の中で私だけは、その友人を天才だと思っています。
やっぱり私は、ゴッホを想うテオが好きで、ピカソを愛した女達が好きで、ジョンレノンを歌う真心ブラザーズが好きで、岡本太郎を愛する敏子さんが好きで、龍馬を書く司馬遼太郎さんが好き。
天才に寄り添う人が、好きなんです。
だけど、だから、憧れはいつでもピカソだったり司馬さんだったりするんだね。

が。
ぶらぶら歩く家までの帰り道、高村光太郎著「千恵子抄」の一節を呟いていた私。
あー
こんな生き方もあったなぁ、と思わされ、にんまりする。

とどの詰まりは、十人十色。
自分の本能なんてものを見抜いてしまったら、きっとそれはすごくつまらない、気がしてきました。
今は今なり。

『ニュース速報は流れた』の撮影も無事終わり、一話の試写会をやりました(写真)。
「一緒に仕事をしたい」と言ってくれた人がいたこのドラマ。
私は、そんな仕事に出会いたくて、そんな現場に生活の全部をあげたかった。
それが叶った気がしたこのドラマ。
優しさの天才も、芝居の天才も、演出の天才も、撮影の天才もいたとても嬉しい楽しい撮影でした。

そして関係ないけれど、親友に赤ちゃんが生まれました。
心が溶けるほど嬉しかった。

あれー?
天才とか、どうでもよくなってきちゃった。
このブログを書いているわずかな時間の中でさえ、考えが変わる。
そんな適当さが心地良い日もあるんだね。

日常の中にある奇跡にしっかり反応をしていければ、それでいい。

そんな感じがちょうどいい。

明日は、みなさんが些細なことに喜びを感じるような出来事がありますように。

ごきげんよう