こんにちは若林佑太です。


ペットボトルと缶の両方で発売されている飲み物って色々あると思うんですけど、何となく缶の方は特別感のある感情が紐づけられているなという話です。


多分缶の方がコストがかからない分イベント時にまとめ買いしやすいとか、そもそも缶が再栓できないという点からボトルの方が選択されやすくて、わざわざ缶を買ったという行為そのものが特別感を持つとか、そんな理由もあるのでしょうが。


とりわけ缶コーヒーって一息だったり気合い入れだったり、なんだかドラマチックな飲み物な気がするんですよね。すぐに飲み干すことの出来る儚さとカフェインを一気に入れる感覚と。



大学生時代にレポート課題や卒論で行き詰まった時にサテライト室を抜け出して深夜の空気を吸いながらチマチマ飲んだ甘いコーヒーだったり


朝早い現場で眠気覚ましのために流し込むちょっと苦手なブラックだったり


子供舌が故に昔はコーヒーをあまり選んでこなかったのもあるのかもしれませんが、自分の中では缶コーヒーは未だ特別な飲み物です。


微妙な大きさの缶飲料もなんだかノスタルジーを感じるので好きです。やけに細い缶のスポーツドリンクとか。なんで細かったんですかねあれ。


それでは



こんにちは若林佑太です。


この前の雨の日、ビニール傘を差して歩いていたところに、ポタリと赤い花弁が落ちてきました。ビニール越しに見える曇天の中でその色は一際鮮やかに燃えていて、「紅一点」とはこういうことなのだなと。
元々は緑の中に一輪赤い花が咲いている様子から来た言葉らしいのですが。


言葉を視覚的に感じる経験って日常の中で時たまあると思うのですが、それをビビッドに捉えられた時はなんだか感動しますね。学んだことと世界が結びついた感覚と言いますか、文字が立体化した感じと言いますか。


台本の文字を役として立体化させるという仕事をさせていただいている身として、言葉を視覚化するという感覚は大事にしないとなと思います。


もっと語彙も増やさないとな。


増やさないとな。



それでは


こんにちは若林佑太です。


先日歯医者に行ってきました。


歯医者と言えば治療に際して発声器官の口を封じられるが故に「痛かったら手を挙げてください」というあるあるが存在しているのですが、あれってどのくらいの基準で手を挙げるものなのでしょうかね。


「耐えられなかったら」と言葉を足してくださる時もあるのですが、頑張れば耐えられるけどもう少し優しかったら嬉しいなあ、くらいの感覚では治療の手を止めてしまうのも申し訳ないなとも思ってしまう訳で。


しかしながら周りで治療中に手を挙げたという話を聞いたこともないので、その先にどんな対応が待っているのか気になってしまう自分もおりまして、でも臆病者な自分はその好奇心で治療の手を止めてしまうのも申し訳ないなと思ってしまう訳で。


そんなことを考えながら治療中は外したマスクの耳ゴムを握りしめることしか出来ませんでした。


「痛かったら手を挙げてください」


その言葉の先には一体何が待っているのか、ご存知の方がおりましたらご一報いただければと思います。


それでは。

こんにちは若林佑太です。

ご無沙汰しております。
前回の投稿の日付を見て誰より驚いているのは自分でございます。
特になにか心境の変化があったりした訳でもなく、筆を取るタイミングを逃し続けた3ヶ月です。


6月7月は、Twitterでお知らせしていた通り舞台『弱虫ペダル』のアンダースタディをさせていただいておりました。ちなみに今年の1月には歌劇『桜蘭高校ホスト部』のアンダースタディも務めておりました。


アンダースタディ、舞台をよく観劇される方でないとあまり認知度は高くないのですが、簡潔に言えば「有事の際の代役」という感じです。


アンサンブルを務める方がメインキャストのアンダーを務めることもあれば、専任でその役を覚え、何事もなければ舞台に立つことなく公演を終えるということもあります。(自分は2回とも後者でした。)


上に書いたものの内、前者がアンダースタディ、そして、そのアンダースタディの方がメイン代役として入ることで抜けた穴を埋める方がスウィングと呼称されたりもするそうなのですが、割と呼ばれ方は曖昧だったりします。


個人的には全編通しての動きを記録する分、その舞台作品への理解度は恐らくトップクラスになるとかスタッフさん方側から稽古を見ることでプレイヤーとは違う視点が得られるとか、見方によっては演者の時以上の価値がある経験が出来たのではないかと思っています。
見ているとお芝居欲が出てきてしまうのが性ではありますが。


Twitterのタイムラインには未だに中止や延期の文字が流れてきて、その度に胸が締め付けられます。公演を続ける砦となるために奮闘する方々に微力ながら全力の応援を送ります。


それでは。



こんにちは若林佑太です。

「○マス戻る」といった表現があるじゃないですか。
元々は双六の指示のひとつなのでしょうが、今は何かショックなことがあった旨の文の締めに使われる用法も見かけます。

例えば
「夜帰宅して電子レンジを開けると、朝食時に温めていた牛乳と再会した。5マス戻る。」
といった感じですね。

この「戻る」という表現が、何となく人生を可逆的に捉える視点を孕んでいて面白いなあとふと思いました。

上に挙げた例で言えば、悪くなっているかもしれない牛乳の不可逆性と、5マス戻るという表現が持つ可逆性という相反する性質が短い文章の中に同居している面白い現象が起きているなと感じるわけです。

最近「マッスルメモリー」という言葉を聞きまして、1度鍛えた筋肉は怠けて萎んでしまってもその鍛えられた状態を覚えていて(厳密には細胞核の数が痩せても減らないのだそう)、再び鍛えた時に前回より早く筋力が向上するらしく、そんなところからも人生の不可逆性に思いを巡らすなどしたわけなのですが。

閑話休題、そんな不可逆な人生に可逆的な表現をぶつけていくというのは、そうなることを求める気持ちが根底にあるのだろうなと感じています。

しでかしてしまったミスを双六のコマのように簡単に戻すことが出来たら、そんな切実たる願いがこの矛盾した表現には込められているのでしょうね。

「〇マス戻る」という表現を見かけたら、その奥にある不可逆に抗うやるせなさに是非慰みの目を。


ちなみに今朝は寝惚けて歯ブラシを便器に落としました。


1マス戻る。



それでは。