花園院 くれもあへず【第4章】 | わたる風よりにほふマルボロ

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現代短歌新聞2021年4月号

作品掲載

 

new「源氏で紡ぐ和歌便り」

2021年8月分掲載new

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百首御歌に

 

くれもあへずいまさしのぼる山のはの月のこなたの松のひともと

 

花園院

風雅和歌集秋中587(577)


 

訳や語釈、これまでの解説は
昨日の記事を

お読みくださいね。

 

【第1章】

【第2章】

【第3章】

 

 

 

話は変わりまして。

 

 

なんでしょう、

こうした体言止めの歌の訳を

する際に

 

「その光のこちら側に立つ

 松の一本の、

 寂しいことといったら」

 

のような感情語を

入れたくなることがあります。

 

 

が、そこは

もっと読者を信用すべき、

読者にとっての読みの楽しさを

奪わない形で訳すべき、

 

という自制心を働かせて

「存在感」という表現に

とどめました。

 

 

この景に

寂しさを感じるかどうか

は人それぞれですからね。

 

だからといってこの景に

楽しさや幸福感を読み取る

読者がいたとしたら、

 

それはなかなかの感性だし、

和歌の読みとしてアウトだ

と思いますが。

 

 

 

信用に足る読者なのかどうか、

 

は、訳者である私ではなく

作者である花園院でもなく

読者側の問題。

 

訳者が言葉を補足することで

読者の鑑賞を邪魔をしたくない

という気持ちは常にあります。

 

なんなら訳だってしたくない。

訳は必要悪ですから。

 

 

とはいえ……訳者として

 

「このブログを読むような層を

 読者と考えるならば、この点は

 信用してよいだろうが、

 

 こちらのこの点については

 信用に足る読者が多い

 とは思えない」

 

と判断し、言葉を挟むことも、

必要に応じてせねばならない。

 

どこまでも答えのない問い

ではあります。

 

 

体言止めの歌は、

結論を言わない美学を前提に

成り立つ、と考えられます。

 

ですから、

作者が意図を以て省いた

感情語や結論を

訳者が入れてしまうことは、

なるべく避けたい。

 

だが、省いて省いて

作者の意図に近い訳には

なったものの、

読者には何も伝わらない、

 

という訳になると

「そもそも訳の存在意義は? 」

「伝わらないなら

 原文のままでよくない? 」

というお話です。

 

 

 

難しいですね。

 

 

だから、言語芸術の訳など

するものではないのですよ。

 

「訳は必要悪だ」

といつも言うのは

自虐でもネタでも何でもない、

本心です。

 

いつかこの必要悪が

正真正銘の悪となる、

和歌が原文のまま鑑賞され

享受される、

 

そんな未来が訪れるまでの

必要悪です、訳も私も。

 

 

くれもあへずいまさしのぼる山のはの月のこなたの松のひともと

 

 

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【第1章】

【第2章】

【第3章】

 

 

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