二次元はすばらしい。~岩佐美代子『京極派歌人の研究』~【前編】 | わたる風よりにほふマルボロ

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及ばぬ高き姿を体現する

子宮系歌人 梶間和歌です。

 

 

友人主催のオンライン読書会の

今週分のレビュー記事です。

 

 

 

 

先週の本の別の章を

読みました^^

 

 

“和歌=挨拶、贈答の手段”

というのは

平安時代半ばごろまで。

 

その後は

(挨拶の歌も女を口説く歌も詠むけど、

 それ以上に)

決まった題(=設定)で歌を詠む

ということがメインになりました。

 

 

例えば恋歌なら、

 

現在恋をしていようが

していまいが

恋の歌を詠む。

 

失恋したことがなくても

失恋の歌を詠む。

 

自分が男でも

「待恋」という題なら

自分が女であるという設定で

せつない恋の歌を詠む。

 

 

 

小説やJ-POPに置き換えて

考えるとわかりやすいかも。

 

作詞家や歌手や小説家自身が

自分の体験を作品にする

 

わけでは、

必ずしもないですよね。

 

 

でも、その人の

複数の作品を鑑賞すると、

 

どこか“その人らしさ”が

(た)ってくるのが

見えるでしょう。

 

 

和歌もそういうものなんです。

 

 

 

今回読んだ章では

伏見院と永福門院という

夫婦の和歌が

取り上げられていました。

 

このふたりの和歌ってどこか

おおらかな、ふっくらした

感じがあって、

 

“京極派”という

和歌グループのなかでも

和歌史全体を通して見ても

異質というかなんというか。

良い意味で。

 

「ああ、これは

 永福門院らしい歌だ」

「これはいかにも伏見院らしい」

とわかるものがあるんですよね。

 

 

その独特のおおらかさの

背景には

彼らの人間性がある、

 

彼らの育んだ

成熟した愛の充実が

そうした歌の気配を

成り立たせている、

 

というのがこの章の主なところ。

 

 

 

ちょっと長くなりましたので、

続きは明日にしますね。

 

 

【後編】

 

 

 

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