藤原定家 思ふこと | わたる風よりにほふマルボロ

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三十首歌の中に
 
思ふことたれにのこしてながめおかん心にあまる春の曙
 
藤原定家
風雅和歌集雑上1427
 
 
 
【現代語訳】
 
我がほかの人、いったい誰に
この景を残し、任せて、
自分は眺めておこうか、
また自分は思う事を
(なが)めておいた
ものだろうか。
この感動は心に余る。
とても言い尽くせない。
私の心にさえ余るこの春の曙を
せめて私が歌にせずに、
私ほどに思いを込めて
この眺めを見つめ
歌にすることなどない
ほかの誰かに任せることなど、
できるものか。
 
(訳:梶間和歌)

 

 

【本歌、参考歌、本説、語釈】

 

この春はたれにかみせんなき人のかたみにつめる峰のさわらび

『源氏物語』「早蕨」巻 中君

 

中納言の君、こころにあまることをも、又たれにかはかたらはんとおぼしわびて、兵部卿のみやの御かたに参り給へり。

『源氏物語』「早蕨」巻

 
ながめおかん:「眺め」に
 「詠(なが)め」を掛ける。
 
心にあまる春の曙:心に余り、
 その風情の言い尽くせない
 春の曙。
 
 
 
建久元年(1190年)六月廿六日、
「一句百首」中の一首。
 
定家は五時(10時間)
百首を読み終えたそうです。
 
 
『源氏物語』「早蕨」巻にて
亡き大君への思慕を
語り合おうと
薫が匂宮のもとを訪れたのは、
春の夕暮れ。
 
定家の歌はこれを
春の曙に転じたものであろう、
とは安東次男『藤原定家』より。
 
「心に余る」という表現は
和歌に馴染んだものでは
なかったそうで、
 
定家ののち、
彼の「思ふこと」に倣ったらしい
用例が、千五百番歌合に一例、
その後数例とのこと。
 
 
 
栗山理一の読みは
「誰に残してながめおかむ」という心は、後の世のなに人がはたして自分と同じような思いの深さをこめて、この春曙のあわれな美しさを詠(なが)めうることであろうか、
という意に解すれば、
「心にあまる」とは、もとより彼の心にあまるほどの美しさであったばかりではなく、古人の心にもあまりあるものと考えていたことになるだろう。
 
それはまた、
かつて春の曙によせてきた、さまざまの古人の思いのすべてを尽くしても、なおあまりあるものと揚言するに足るほどの美しい美の世界の発見を裏書していることにもなろう。
 
そのような発見のひそかな喜びは、胸のふるえるような感動であったに違いないとしても、
それを確かに詠めおくことは、彼にとっても心にあまるほどの至難な営みであった
というところに、彼の表現生活の焦燥と苦渋にみちた血戦の道が展かれることになたと思われる。
というようなもので、
こちらを裏付けする
同時代や後世の読みも
紹介しています。
 
 
安東次男の論にも
なるほどと思われつつ、
 
私には、こちらのほうを
より優先させて受け止めたい
と感じられるかな。
 
 
なんにしても、
訳すには至難の業です。
 
そもそも
訳は必要悪ですけれどね。
 
 
思ふことたれにのこしてながめおかん心にあまる春の曙
 
 

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