我が身には 「心の花」2017年5月号掲載作品 | わたる風よりにほふマルボロ

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「心の花」2017年5月掲載分(2月提出分)詠草

 

梶間和歌


 

チェック我が身には余るめぐりの報いなれやよその胎こそ息吹き初めけれ

 

うらむべきひとは怨みで児(こ)を生せる者めざましと妬むさが哉

 

チェックうたかたのとつきとをかの夢許(ばかり)かたちはなさで燃ゆるじやうねん

 

(ねた)しともあはれとも思ふをちかたにひとの児を生す者のはかなさ

 

我が胎にいのちはをらず我が胎よちぎれ果てなむよその児を手に

 

チェック妬しとは思ふ思ふも思ひ果てずよそにつらなるひとのをさな児(ご)

 

我が胎よいのちを宿せ我が胎にとつきとをかの夢はこそ散れ

 

チェックひとの血を引く児を抱き母となる強くあれかし我れのをんなよ



チェックのあるものが掲載されました)
 
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【本歌、参考歌、語釈】

 

 

うらむべきひとは怨みで児を生せる者めざましと妬むさが哉

 怨みで:怨まずに。

  「うらむ」が四段活用されるのは

  近世以降で、それまでは上二段活用。

 

 めざまし:

  身の程を超えておりゆるしがたい。

  平安時代の仮名文学では、多く

  上位の者が下位の者の言動、状態を見て

  身の程を超えている、と

  不快に思い、またまれにほめて用いる。

  ここでは、心変わりをした夫ではなく

  夫の子を宿した女性を下位に見て

  「めざまし」と妬むことを表す。

 

 さが:性

 

 

うたかたのとつきとをかの夢許かたちはなさで燃ゆるじやうねん

 うたかたの:「うたかた」は少しの間。

  また、元が泡の意味なので

  「うたかたの」は

  「消ゆ」などを導く枕詞でもあり、

  「夢(消ゆ)」と広義に捉えて

  枕詞として用いたとも考えられる。

 

 とつきとをか:

  十月十日(間)。妊娠期間。

 

 なさで:成さずに

 

 じやうねん:情念

 

 

我が胎にいのちはをらず我が胎よちぎれ果てなむよその児を手に

 ちぎれ果てなむ:

  ちぎれ果ててしまえばいいのに

 

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『源氏物語』

「明石」「澪標」「松風」「薄雲」を主に。

「人ごゝろ」一連と同じく、

紫上を一人称で。

 

妊娠出産に関する歌を詠む限り、

もとから憑依体質の私も

日ごろに増して憑依しやすいらしく、

 

不妊である我が身と折り合いを付け

養女や養女の子どもたちを

立派に育てた紫上は

成り代わりの歌が大変詠みやすい。

 

 

紫上は光源氏の正妻ではなく正妻格ですが、

正妻となり得る朝顔の君や

正妻として降嫁する女三宮の登場する

場面以外では、

正妻であるかのように読んでも

そこまで大きな間違いはないように

思われます。

もちろん、正確には正妻“格”なのですが。

 

なので、不妊の自分が

夫の流謫に伴い都で家を守っているあいだ

下った先の女を孕ませたとなれば、

正妻(格)として

相手の女性を「めざまし」と妬むのが自然。

 

 

生物としての生殖の仕組みを考えれば

自然なことでもありますが、

 

伴侶の浮気や心変わりに際して

男は伴侶である女を責め、

女は伴侶を魅了した相手の女を責めますね。

 

光源氏など、

のちに正妻女三宮が強姦されても

妻の不注意を責めるような男なのですが、

これはなにも源氏に限ったことではなく、

 

妻のお腹の子が本当に自分の子なのか

DNA鑑定でもしない限り

100パーセント確かな事は判らない

オスという種が本質的に抱える不安の

なせるわざ、というか業だと思います。

 

本能に“DNA鑑定”という概念など

通用しませんしね。

本能的に不安なものは仕方ない。

 

その仕方ないものといかに折り合いをつけて

動物としての存在を超えた人間として成熟し

器を大きく持つのか、というところが

人それぞれの魅力の多寡なのだ

と感じます。

 

つまり、光源氏のした事は

動物としては自然ですが

人間としてはやはり器が小さい。

私はそう思います。

 

 

話がそれましたが、女は、というかメスは

きっとオスのそうした本能的な特徴を

どこかで受け入れているのでしょう。

男が浮気をするのは仕方ない、

生物として正常なことである、と。

 

だから、すべてとは言わないまでも

多くの女性には

夫の不誠実に際して夫を責めるより

夫の相手となった女性を責める心が

生まれるのでしょう。

 

私の友人にはおもしろい女性がいまして、

「どんなに相手が誘惑しても、

 行動したのは男じゃない」

とバッサリ断罪するのですが、

彼女は聡明でこそあれ多数派ではない。

本人もそう言っていました。

 

 

ということで、紫上が

源氏の子を宿した明石の君を

「めざまし」と思うことは、自然なこと。

 

ただそこで終わらないのが

『源氏物語』に登場する女君たちの

強さですよね。

 

源氏は政略のために

明石の君の産んだ女の子を

正妻格紫上の養女として育てることにし、

紫上はそれを快諾します。

 

 

このあたり、原文を読むと

正直もの足りないのです。

女性訳者たちも口々に言っています。

「自分の夫がよその女に産ませた子を

 育ててくれと言われて

 “子ども好きなのに不妊だから”喜んで

 引き受けるような女があろうか」と。

 

実子がいるよりいないほうが

養子を育てるにも障りが少ない

ということは、ありますが。

それにしても

そんなにあっさり受け入れられるものか、

と。

 

ここは、

紫式部の筆が未成熟だったがゆえの

ご都合主義だった可能性が高いです。

『源氏物語』執筆順に関する研究も

ずいぶんありますが、

私は「藤裏葉」までのA系の書かれたのちに

並びの巻としてのB系が書き加えられた

という説を採っていますので、

紫上が明石姫君を養女とするあたりは

紫式部が作家として未熟だったころに

執筆されたと考えられるからです。

 

ただ、それはあくまで作家の未熟。

私は、物語でも歌でも絵画でも

完成形が

すでにこの宇宙のどこかに存在しており、

その異次元に作者がアクセスし、

作者の生きる次元の他の存在に

認識できる形に翻訳するものである、

と考えます。

 

ですから、

紫式部が未熟であろうとなかろうと

また作者が彼女ひとりであろうとなかろうと

『源氏物語』完成形はすでに存在していた。

(もっと言えば、パラレルワールドとして

 いろいろな形の完成形が存在していた。

 だから後世の研究者によって

 いろいろな巻が執筆されてきた)

 

だから、私は

ここで紫上が当然経験したであろう葛藤に

アクセスしたいと思うのです。

紫式部には書けなかった紫上の葛藤を

私はこの世に引きずり下ろして

人目に触れさせたいと思うのです。

 

 

どんなに子ども好きでも、

どんなに不妊の自分を

夫に対して後ろめたく思っていても、

どんなに夫の政治的成功に協力したくても、

 

自分より格下の女の産んだ子どもを

一点の曇りもない無邪気でおおらかな心で

受け入れられる女、などという話は

生身の女である私には

リアリティを伴って感じられません。

ファンタジーです。

 

同じように感じるからこそ、

女性訳者の多くが

そこを指摘したのでしょう。

そして、生身の女ではないからこそ

男性訳者の多くは

そこに着目してこなかった。

 

私はそこを描き尽くしたいです。

歌で、もしくは、

いずれは違った表現媒体で。

 

不妊の女性が

夫とほかの女性の子を我が子とする葛藤。

 

子宮系歌人として

実にやり甲斐のあることではないですか。