自分の言ったとおりになると信じる | 主は私の羊飼い

主は私の羊飼い

アブラハム、イサク、ヤコブの神、神の子キリストを信じる信仰とは。
無農薬、無化学肥料、
ほとんど不耕起、
自然栽培で作った野菜、果物で
健康を維持する。
統合失調症と診断された娘との暮らし。

シャローム! 安息日をありがとうございます。

 

訪問してくださった方に、御子イエシュアを通して父なる神の愛が注がれますように。

 

毎晩、申命記をヘブライ語で音読していて、最近気づいたのは、日本語訳では「~するでしょう。」のように未来に起こるかのように書かれてあっても、そのヘブライ語の動詞を見ると、完了形であったりすることです。

 

ダンナもずっと旧約をヘブライ語から訳す作業をしていて、完了形のことばが多いと言っていました。

 

たとえば、有名な詩編23篇です。

 

日本語訳では⋯。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。

 死の影の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。

 あなたがわたしと共にいてくださる。

 あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」

 

これはミルトス社の対訳シリーズの訳で、新改訳もほぼ同じような訳です。

 

この中にある動詞はほとんどが未完了形で、完了していない動作、未来に起こる動作、習慣的動作を表します。

 

しかし、5節の「油を注ぐ」と6節の「住む」いう二つの動詞だけは完了形です。

 

また、付け加えると、どちらも受動的なことばではなく、能動的に分類されています。

 

だから、具体的には、「羊飼いなる御子イエシュアはわたしに油を注いだ」「わたしは主の家に住んだ」と読むのが原語に一番近い訳となるようです。

 

 

私が大学卒業後、いのちのことば社に勤めたとき、毎朝の社内礼拝で、最後に二人の人が祈って閉じるのですが、ある姉妹が祈ったその祈り方が今まで聞いたことのないもので、驚いた記憶があります。

 

それは、「~しますように。」というのではなく、「~してくださってありがとうございます。」なのでした。

 

ピリピ人への手紙4:6、に、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とありますから、この姉妹の祈りはその通りの祈り方だな、と感心しました。

 

ところが、私はそれからそれほどそのことを意識して祈ってきませんでした。

 

また、マルコの福音書11:23,24で、御子イエシュアは言われています。

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 

「海にはいれ。」の「はいれ」というヘブライ語が完了形であるかどうかわかりませんから、この訳があっているかわかりませんが、すでに受けたと信じるならば、「海にはいった。」と言うべきでしょう。

 

私たちはこのたとえがあまりに日常とかけ離れたものであるから、そんな大げさな祈りなんてできない。としり込みしてしまいがちですが、そんな大げさなことでも願っていいのだ、信じていいのだ、神にできないことはないのだ、と教えられているのです。

 

父なる神は、私たちの願いなど、最初からお見通しです。だから神のみ教えに生きる聖徒の願いならどんなことでも聞いてくださるのです。しかし、私たちがいつも「~しますように。」と受動的で、いつそうしてほしいのかも態度もあいあまいでいると、神様はぬるい願いにはぬるくしか応えられないのではないでしょうか。

 

と偉そうに書きましたが、私もあいまいな祈りが多かったのを反省し、これからは能動的な完了形のことばを口にして祈っていきます。みなさんもぜひそうしてみてください。

 

最近購入したトングドラムという楽器です。千円でした。

私は楽器はまったくできなくて、これくらいなら楽しめそうなので買いました。

ダンナは前から、これのもっと大きいのが欲しかったらしいです。

でもこれでも、初心者にはけっこう楽しめます。