シャローム! 安息日をありがとうございます。
今朝はすっきり晴れましたが、風があって少し肌寒いです。
6日の田植えも無事終えました。その日も風が強くて上着を取りに戻りました。
途中休憩でおやつを広げましたが、すぐ土埃がついてしまい、楽しめませんでした。
さて、今朝の礼拝では、創世記42章、使徒の働き10章を朗読しました。
ヨセフの10人の兄弟が、エジプトに穀物を買いに行く場面です。
兄弟たちは、エジプトの権力者となっていたヨセフと面会しますが、ヨセフにスパイだと疑われます。
そして、ヨセフは兄弟たちに、「あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。」16節と言います。
しかし、3日後、「もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。」19節と考えを変えています。
ヨセフにしてみれば、自分をひどい目に遭わせた兄弟たちに恨みを持つのも当然ですから、最初の思いは彼の正直な現われだと思います。しかし2日間のうちに心変わりをしたのは、彼のやさしさであり、神の前に正しくありたいという義の思いだったと感じます。
また、使徒の働き10章では、ペテロがユダヤ人でない外国人を同じ信仰者として受け入れる場面です。
ガラテヤ書2章11~14節でパウロがペテロを責めたように、ペテロはユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことと、信じていました。(使徒10:28)
しかし、トラーにはそのような教えはないのです。だからペテロや他の使徒たち、弟子たちであっても、トラー以外の人間が決めた教えを神の教えだとして、守っていたことがわかります。
だから、御子イエシュアは、彼らと生活を共にしながら、本当の神の教えを実践されたのです。それでも、御子の死後も改まっていないことはあったのです。
そこで、主はペテロに幻を見せて、考えを改めさせました。
私たちは、置かれている場所で平和に生きて行くために、国や自治体、小さなコミュニティの中で守らなければならないルールがあります。だけど、小さなルールはちょこっと破っても、責められることもないことがあります。殺人ですら、戦争になれば許されてしまうのが、人間の世界です。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という標語(?)が言い流行ったことがありました。確かに大勢で渡れば車も止まってくれるのかもしれませんが、止まらない車がいてひかれたら終わりです。それにみんながそんな信号無視をしだしたら、その国は終わります。そんな標語が流行るような日本もすでに終わりに近づいている証拠だったと思います。
ペテロたちの時代も現在もなお、神の教えに人間の教えをくっつけて、それを守らなければ罪人で、神の国に入られないと信じている人が大勢います。
パウロがガラテヤ書2:16で証しているのは、そういった神の教えに人間の教えがかぶさった、偽りの教えを律法と呼んでいるいるのです。パウロも厳格なパリサイ人だったので、手を洗わないで食べてはいけない、罪人と食事をとってはならない、安息日に人を癒してはならない、などトラーの教えにないようなことまで守っていて、それを破れば罪人とレッテルを貼られます。レッテルを貼られると、会堂から追放されたり(ヨハネの福音書9:22,34)したわけです。
過去に、私の母教会の牧師が、ある兄弟が什一献金をしないと、私を含む数人の前でぼやきました。私は、その兄弟が自分の息子に牧師の名前の一字をつけたくらい牧師を尊敬している、と聞いていたし、礼拝は欠かさず出席していたので、それを聞いて驚きました。またそれと同時に、牧師が人前で兄弟のプライベートなことを明かしてしまったことも、嫌な思いになりました。私は、その兄弟にも何か考えがあるのだろうと思いましたが、やはりそれから兄弟を見る目が変わってしまいました。
教会で献金をするのはルールで当たり前となり、また、リーダー格の人が少し悪い情報を流せば、それによってその組織の中で色々な憶測が生まれるし、やはり什一献金をしないことはいけないこと、となっていくのです。献金は強制ではないし、トラーの教えにもありません。多くすればいいわけでもないし、その人の心のままにすることが一番です。
また、私が最後に所属していた教会では、ある兄弟が自分は預言ができると、他の信者に話しはじまったとたんに、牧師はじめ役員たちから、あの人は変わった人、教会にいられては困る、という流れを作りだしてしまいました。
ある宗派の洗礼式では、神のことばに忠実であると共に、教会に対しても忠実を守ることを誓わさせられます。これは恐ろしいことです。もし、教会が神のことばから外れるようなことを言い始めれば、みなが揃って罪人になってしまいます。でもこれは、ある宗派だけの話ではありません。
「そこでペテロは、口を開いてこう言った。
『これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
どの国の人であっても、神をおそれかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの民の子孫にみことばをお送りなりました。
このイエス・キリストはすべての人の主です。』」使徒の働き10:34~36
平和のみことばはモーセを通して語られたトラーです。御子イエシュアは、福音書でトラーしか語っていません。
私は、今まで聖書を読んだこともなく、イエス・キリストがどのような方なのか、全く知らない人が私のブログを読んで、少しでも興味をもって、聖書を読み、イエス・キリストを知って悔い改めて神の義に生き、聖徒としての人生を送ってほしいと心から願っています。でもそれ以上に、かつての私のように、クリスチャンとして生き、教会生活を送っていて、教会の罪を感じながらもそれに仕方なく従って生きている人、自分の中の義を抑えつけて苦しんでいる人がいれば、今こそ考えを改めて本当のいのちの道を歩いてほしいと願っています。
強風の中、田植えがほぼ終わり、長女夫婦が補植しています。
お婿さんは小学生以来の田植えです。
私たちが3分の2くらい終えたころに、向かいの田植えが始まりました。
自分の田んぼではなく、何軒かの田んぼを借りている人で、請け負っている場合とすべての収穫を得る場合とあります。
周りの田んぼはそういうところがどんどん増えています。
8条植えで、私たちが終わったと同時にあちらも終わりました。そして別の田んぼに向かって行きました。
うちは、いつもダンナがせっせと手押しです。