こんばんは。
安息日が終わったあとの夕食は昨晩の残りに冷蔵庫にあるもので済ませます。
ちなみに、今日はごはんに野菜スープをかけ、大根のぬか漬けでした。
野菜はなるだけ自分が作ったものしか食べないようにしています。
お父さんが作ったものも、ご近所の農家さんが作ったものも、化学肥料で育ったほぼ栄養価のない野菜だからです。
それでも、考えてみれば、84歳で亡くなった母も、98歳で亡くなった祖母も、そんな化学肥料で育った野菜しか食べていなかったけど、そこそこ健康でした。今、シェアハウスにいる94歳の父も、自分で「100歳まで生きられるような気がする。」と言っています。
私が大人になって、麦飯が食べたいと母に言ったとき、母はものすごく拒否しました。戦時中を思い出すから嫌だ、と。
だから母は毎日3食きっちり白米を食べていました。母は60代くらいまで検診なんて行ってなかったし、スポーツするなんて習慣はまるっきりなかったし、趣味もこれといったことはありませんでした。ただ日蓮宗の御奉公には熱心で、渋谷のお寺には良く行っていたけど、それも帰りに東横のれん街によっておいしいものを買うのが楽しみだったからではないかと思います。
でも母は、基本手料理でした。レトルト、冷凍食品は買わない。お菓子もほぼ買わない。
料理には、旬のものを使う。
だけど、味噌汁、ぬか漬け、納豆は食卓にはのぼりませんでした。
だからか、私はいくらか便秘気味でしたが、基本元気でした。
祖母も母も土佐のはちきんで、結構自我が強いところもあったけど、人情味のある性格でした。
食べることには人一倍熱心で、料理番組は必ずチェックして、その通りに作っていました。
祖母は若いうちから左目の視力がほとんどなかったので、大好きなテレビには顔をこすりつけるように見ていました。
毎朝、お花に水をあげながら「ありがとう」とお花にお礼を言っていました。
母は、誰にでも話かけられる特技があって、3.11の日も渋谷駅で足止めに合い、たまたま声をかけた女性の家が同じ地域だったため、女性を迎えに来てくれた家族の車に乗せてもらって帰ることができました。
ダンナのお母さんも、母のことを大好きと言ってくれていました。
二人がいなくなって今は、もっと会話しておけば良かったな、と後悔することばかりです。もっと二人のことを知っておけば良かったな、と。二人の子ども時代、少女時代、結婚したころのことなど。
食事中にテレビをつけなくなってから、ダンナとの会話が増えました。
テレビを介しての会話ではなくて、それぞれの過去のこと、今考えていることなど。
そして、また「昭和が良かったね。」と。
コップは「狼少年ケン」です。私の生まれる前のアニメなので私は見ていません。母はこれで洗濯石鹸の粉をすくっていました。
5色の人形は何かのお菓子のおまけだったのかな?色々に合体できます。今気づいたけどゴレンジャーだ。
折り紙の箱は母の友人が作ったもの。昔の女性たちは縫物やこういう小物作りが得意だったのかな。