浮世絵での考察
をやってて
新たに知らぬ事
(分かったフリして、何も分かって無かった事)
に気がつきました( 'Д`)
ずっと放置してた 諸々な和傘 シリーズ
再開しなきゃな(^_^;)
と
物忘れが進みかけてるので
備忘録の様な感じではありますがね( 'Д`)
さて 前回 触れた蛇の目傘の事( 'Д`)
蛇の目とは?
同心円を基調にした模様で、ヘビの目から名づけられた。 Wikipediaより
て事の様です( 'Д`)
蛇の目は家紋などにも使われます
有名なのは 加藤清正 の蛇の目紋かと思います
古くは 弦巻き とも呼ばれたそう( 'Д`)
他にも
利き酒などに使うお猪口
底には円が描かれてます( 'Д`)
あれも蛇の目と呼ばれます( 'Д`)
因みに
英語ではこの同心円のマークを
Bull’ eye と言います( 'Д`)
意味的に牛の目だと違うので
うちのInstagramなどでは
あえて snake eye として
蛇の目 の意味を最優先にしてます(笑)
分からなけりゃ聞いとくれ
って思ってます( 'Д`)
さて
この蛇の目傘が出たのは
元禄年間(1688〜1704)
江戸時代の前中期頃
天皇様は東山天皇
幕府は五代将軍・徳川綱吉です
生類憐みの令 の将軍 犬公方と呼ばれた頃で
この少し後に赤穂浪士・忠臣蔵の事件なども起こります( 'Д`)
現在の中野駅周辺には
御犬御殿と言う物が作られてました
この御犬御殿の普請は
岡山・美作国 作州津山藩の森家が関わりました( 'Д`)
あ
わたくしの実家は津山藩領内で御座います( 'Д`)
森家とは
織田信長の家臣 森蘭丸の家系で
津山藩に来られたのは蘭丸の末弟・忠政です( 'Д`)
森家が御犬御殿の頃に取り潰しとなり
その家臣数名は友好関係の有った赤穂へ
赤穂浪士には津山藩出身の武士も居ました( 'Д`)
大石神社は森家が建てたものと言われます( 'Д`)
その辺りは 森一族 って漫画でも読んでみてください( 'Д`)
話があちこちしてすみません(>_<)
戻します(^_^;)
で
蛇の目傘
ほとんどの人がイメージするのは
よく見る 赤 や 紫 などの単色の細身の傘ですね( 'Д`)
いつからか
一色張りの蛇の目傘が出てきました( 'Д`)
蛇の目が柄の事ではなく
蛇の目傘の骨を使った傘の総称になったからなのでしょうか?
これは謎の1つです(^_^;)
で
本来の蛇の目傘とは?
の色の幅が同じの物です
俗に 助六 と呼ばれるタイプの物です( 'Д`)
※この青い傘には頭に頭甲紙(カッパ)が付いてます(下の赤い傘の写真の布部分)が、
本来の江戸期の蛇の目傘は頭甲紙が付いてないです( 'Д`)
これは、江戸期の蛇の目傘は差し掛け傘の系統に連なる傘なので、浮世絵に描かれた傘には頭甲紙(カッパ)は描かれておらず、長頭(壺轆轤)が使われてます
この頭甲紙が蛇の目傘に付けられたのは明治以降との事です
時代劇で頭甲紙の付いた蛇の目傘がたまに見受けられます
オーパーツです( 'Д`)
と、諸々と偉そうに書きましたが
今回のこれを書こうと思ったのは
この頭部分の事が原因でした( 'Д`)
わたくし
知らなかった(見落としてた)のです(>_<)
改めて自分の理解力・読解力の無さを恥じて書いてます(>_<)
さて
この蛇の目の青い紙の色
何かと言えば 藍染め の和紙です( 'Д`)
塗り分けの蛇の目傘なども有りますが
元来は、この藍染めの和紙
四国・高知の土佐和紙 "土佐青"
を使ったと言われます( 'Д`)
最初の蛇の目傘は
青白青の土佐青を張った等幅の二つ切り(助六)であったと言われます
稀に武士が使う事もあったけれど
多くは僧侶や医師の間に用いられて
市井の人は京阪の男子のみが使った とされてます
少し下り元禄の末頃には
京阪地方から「女蛇の目張り」として
中心を萌黄張りにして小骨は黒、五色の糸を三段掛けにして武士の内室に多く用いられる
とあります( 'Д`)
先にも書いた様に
蛇の目傘は差掛け傘の類いとなります
京阪地方の蛇の目傘は柄が長かったと言われます
これは、
女中を従えて自らは傘を持たず
必ず女中に持たす
だから、京阪の蛇の目傘は
形が大きく柄が長かったと言われます( 'Д`)
逆に、江戸は女中を従えても傘は自らで持つ
その為京阪のものより柄は短かった
と、あります
後に京阪地方も次第に自ら傘を持つ様になり
柄も短く江戸と変わらぬ様になった
と
ただし
昭和初期までは
山口 及び 熊本地方には柄の長い蛇の目傘が有ったと記録されてます( 'Д`)
蛇の目傘は
大きく分けて五種類かな?
1 助六蛇の目傘
白紙と色紙が三等分の 二つ切り蛇の目傘 別名 助六
助六の名は、歌舞伎の演目「助六」が使う傘に由来している
2 五郎蛇の目傘
白部分、中張りの幅が狭い 中入り蛇の目傘 別名を 五郎
五郎の名は、曽我兄弟の仇討ちの際に富士の
裾野で討ち入りの時に傘を燃やして松明にした
故事から由来する
3 奴蛇の目傘
中の白部分が広いタイプの蛇の目傘
浮世絵の中で鳥居清長や歌川豊国などにも見られるタイプかと思います( 'Д`)
この奴蛇の目傘は軒だけ色を変えた物との説もあります( 'Д`)
難しい(>_<)
これ、裾青って呼んどるんよなあ( 'Д`)
まあ同心円ではあるよなあ( 'Д`)
4 模様継ぎ蛇の目傘
厳密に言えば、蛇の目は同心円の形を表すはずなのだけど(^_^;)
傘紙に模様を合わせて切り抜き、色違いの紙で裏張りをし、模様や家紋を浮き出す。
この技法を「模様継ぎ」や「切り継ぎ模様」と呼ぶ
5 一色張り蛇の目傘
単色の細い傘
これはいつ頃から蛇の目傘と呼ぶ様になったんだろう( 'Д`)
この謎は深い?( 'Д`)
他にも
中心をズラした月奴(つきやっこ)
紙を張り分けず染め分ける物などもあります
思うに
4、5など同心円の形をしてない物を蛇の目傘と呼ぶのは何故か?と推測
細い傘骨の事を蛇の目骨とか呼びます( 'Д`)
その骨を使った物を蛇の目傘と呼ぶ様になったのではないか?と思います( 'Д`)
同じ骨を使っても 紅葉傘 は紅葉傘と呼ぶなあ( 'Д`)
これも同心円なんやけど( 'Д`)
女蛇の目傘 とは分けられてるのは
紅葉傘は土佐青(藍染和紙)
女蛇の目傘は萌黄色の紙
って所か?
調べなきゃ(>_<)
さて
ここまで書いておいて新たな疑問が(^_^;)
曽我兄弟の仇討ち は 鎌倉時代の仇討ち話( 'Д`)
ここで気になるのだが鎌倉時代? 傘?
またもや和傘の歴史の矛盾に当たる(>_<)
この曽我兄弟の仇討ち話から来るお祭りが
曽我どんの傘焼き と言う名で鹿児島で行われてます( 'Д`)
静岡県 小田原にも曽我の傘焼き祭り ってのもあります
この 曽我どんの傘焼き を模したのが
うちでやってる 和傘松明 です( 'Д`)
曽我どんの傘焼き のキャプションも出してます( 'Д`)
なんだかんだと
長くなり過ぎました(^_^;)
また次へと続きます( 'Д`)