エドセル、ディーノ、バレンチノ…私の『初めて』は、全て息子だった偶然。 | パンチサイクル~井戸端パンチ~

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自転車小僧の成れの果て・・・ネタがある限り日刊です。ワケがわからなくても、笑って許して下さいな。

 歳を重ねてきますと『初めて○○…』という事が減ってくるものですが、それでも「この歳になって初めて……」は、まだまだあるものです。
 何年か前になりますが、私は40を過ぎてオリーブに種があるのを初めて知りました。イヤイヤ恥ずかしい……
 隠れた自転車乗りの名所、浅草橋の「bevi」さんでオリーブを頼んだら…


 こんな感じで出てきまして、私は「なんでここのオリーブには種があるんだ?」と言いました。周りの方々は「?????」。当たり前です。オリーブに種があるのを知らなかったのは私だけなんですから。


 これこそが私の中のオリーブで、中の赤いのが「オリーブの身」だと思っておりました。冷静に考えたら、種の周りが身ですから、身の中に身があるわけないですな。


 そんな私が初めてアメ車を知ったのは、小学生になる前でした。


 車はリンカーンで、ケネディ暗殺時の大統領専用車としてでした。
 時は一気に流れ、二十歳を過ぎた頃にアメ車への憧れはあるものの乗った事がなかった私に、初めてアメ車に乗る機会が訪れました。バイト先の友人の親父さんが持っているとの事で、無理を言ってお宅へ伺いました。そこで見たものは……


 リンカーンとは似ても似つかない車でした。車名をエドセルと言うそうで、史上最大の失敗作だったらしい……それでもワクワクしながら同乗させて頂き、ガソリンスタンドへ…「ブレーキが甘くてさ」と、お父さん。確かにハイオクの停車位置で止まれず先まで行き「スミマセ~ン、そちらは軽油です」と店員さんに言われておりました。後にそのエドセルは、フォードさんの息子氏の名前と聞き「大丈夫か息子」と思っておりました。

 時間を少し戻しましょう。時は1976年の埼玉県草加市…世間は社会現象にもなったスーパーカーブームの絶頂期であります。豊島区から引っ越したばかりの草加は驚くほど田舎でありまして、スーパーカーはおろか、Zすらあまり見ないありさま…そんな時に1台のスーパーカーがダイエー草加店の前を通りました。産まれて初めて見た「生スーパーカー」は…


 フェラーリ・ディーノでした。タルガトップの屋根は外され、それはそれは衝撃でした。すぐさま愛機ヤマハ・モトバイクに跨がり追尾。ディーノはどんどん我が家の方へ向かいます。そしてついに我が家の前を通過、500メートルほど行き止まりました。なんとその場所のシャッターの中にディーノは入っていたんですな。ドライバーさんは「キミ"も"車好きなの?」と気さくに会話してくれまして「ディーノはフェラーリさんの息子の名前でね、正確にはフェラーリじゃないんだよ」と、いきなりマニアックな事を言い出しました。「ディーノがフェラーリじゃない?でも教科書(サーキットの狼)にはフェラーリ・ディーノになってるぜ」と煮えきりませんでした。とりあえず、初めて見た生スーパーカーは息子の名前が付いていたということです。

 時は少し進み中学三年生……自称自転車マニアも一年生になった頃、周りの大人達はカンパ、カンパと言っております。
 

 当時の私の愛車は、ミヤタ ル・マンツーリスム。63,800円の自転車に20,000円の変速機が付いてるワケもなく……


 当時の登竜門的なサンツアーVXが付いておりました。「くそ~俺もカンパ、カンパって言いたいぜ」と思い……


 300円でレバーキャップを買いましたが、同級生のスギ君に先を越され「キミ"も"レバーキャップかい?」と、二番煎じになってしまいました。


 これは禁断の変速機しかないと思いカタログをパラパラ…



 「おっ、この価格なら買えそうだな、まさかミスプリじゃないだろうな」と思いつつも、オーナー(後の師匠)に聞きました。「在庫あるよ、セットで5000円でいいヨ」と言ってくれました。それが初めてのカンパの変速機でした。そしてそのバレンチノという名前も、カンパニョーロさんの息子氏の名前だと知りました。しかし、そのバレンチノにはとんでもないオチがありました。
 ~つづく~