鬱陵島からの脱出

 

子供の頃、一度だけ父に連れられて三重県の尾鷲を訪れたことがある。

そこには祖父の弟、私から見れば大叔父にあたる人が入院していた。

 

祖父の兄弟については詳しいことは知らない。

ただ大叔父は、父が子供の頃から特に慕っていた人で、普段から連絡を取り合っていた。

しかし勤務の都合で、なかなか直接訪ねる機会はなかったらしい。

 

戦時中、大叔父は海軍の機関士だったそうだ。 各地を転戦した末、終戦まで鬱陵島に駐屯していたという。

終戦が近づくと、敗戦を予感した同僚たちと脱出を計画した。 状況を見ながら実行するつもりだったという。

その理由は、島の住民の中に不穏な動きが見られ、島にいた家族を守る必要があったからだそうだ。

終戦を迎えると懸念は現実となり、夜陰に紛れて脱出することになった。

大叔父は数人の同僚とともに桟橋で警備に立ち、日本刀を手に出港までを守り、襲いかかってきた人々に応戦したという。

 

全員が船に乗り込むと、大叔父自身が操舵を担い、船を出港させた。

命の危険への恐怖と極度の緊張の中で、手が震えながらの航海だったそうだ。

夜明け頃、隠岐の島が見えたときには、ようやく日本へ戻れたという安堵で力が抜けたと語っていたという。

 

大叔父はその後、海上保安庁に入り、日本各地で勤務を続けた。そのため父も会いに行くこと自体が難しかったらしい。

北海道の礼文島で、国境に近い海域の警備任務に就いた時期もあったそうだが、最終的には尾鷲に落ち着き、第4管区海上保安本部管内で定年まで勤務したそうだ。

 

これは父が大叔父から直接聞いた話であり、私自身が本人から聞いたものではない。

そこで、この親族内の伝承が、どの程度事実として整合するのかを、いくつかの観点から検討してみた。

 

1. 軍人には終戦のことが8月15日以前に伝えられていたのか?

一般の部隊には、8月15日の玉音放送以前に「終戦決定」が正式に伝えられていた例もある。 ただし伝達時期は部隊や場所によって大きく異なった。

  • 大本営からの停戦方針は8月10日以降に動き始めた
  • 海外の孤立した部隊には情報が遅れた
  • 8月15日当日、あるいは数日後まで戦闘を継続した部隊もあった

鬱陵島のような離島駐屯部隊の場合、中央からの通信状況によっては、8月15日前後に「日本が降伏するらしい」という情報を得ていた可能性はある。

 

2. 「不穏な動き」は島全体だったのか、一部だったのか?

終戦直後の同島では、さまざまな立場の人々が混在していた。 そのため「島全体が敵対的な行動に出た」と見るのは適切ではなく、一部の集団が日本軍や日本人に対して敵対的な行動を取った可能性を考える方が自然だ。

仮に島民の大部分が組織的に襲撃していたなら、脱出自体が極めて困難になったはずである。 鬱陵島は面積約73km²、1945年当時の人口は約2万人前後と推定される。 船で脱出するには港や桟橋まで移動し、乗船・出港するまでにある程度の時間が必要になる。 もし大部分が組織的に襲撃していたなら、港は完全に包囲され、乗船そのものが難しくなった可能性が高い。

したがって、

  • 港周辺で一部の集団が襲撃を企図した
  • 武装した日本兵が桟橋を警備した
  • その隙に兵士や家族を乗船させて出港した

という流れの方が、軍事的・物流的には整合しやすい。

 

また「夜陰に紛れて脱出した」という証言も、この状況と矛盾しない。 敵対的な集団の規模が限定的だったからこそ、夜間行動で接触を避けられた可能性が考えられる。

もちろん「ごく一部」と断定まではできないが、「島民の大部分が敵対的行動に出た」状況よりも、「一部の集団による脅威があった」と考える方が、脱出に成功したという伝承とは整合しやすい。

 

3. 鬱陵島から脱出して隠岐の島が見える航路は妥当か?

鬱陵島から日本へ戻る場合、一般的には日本海を横断して 鬱陵島 → 隠岐諸島付近 → 本土側(島根・鳥取方面など) という経路になる。

鬱陵島から隠岐までの直線距離は約250km前後あり、当時の艦艇で十分航行可能な距離だ。 「隠岐が見えた」という話は、

  • 日本領域に近づいたことの確認
  • 海図や航法上の目標
  • 長時間の不安な航海後の心理的な区切り

として、復員者の体験談としてごく自然な内容だと言える。

 

4. 機関士だった大叔父が、脱出時に舵を握っていたのはあり得るか?

軍隊、特に敗戦前後の極限状態では「本来の専門職に関わらず、動かせる人間が何でもやる」のが普通であり、十分にあり得ることだ。

機関士はエンジンの専門家だが、艦艇の構造や航行の仕組み、羅針盤の見方、船の動かし方については、日常的に操舵員と仕事を共にする中で基本的な心得を得ている者も少なくない。 現代の船舶では考えにくい話かもしれないが、当時なら十分あり得たと考えられる。

脱出時は正規の操舵員が不在だったり、負傷していたり、人手不足で手が回らなかった可能性が高い。 「船を動かしてここから脱出する」という目的の前には、職種の垣根などと言っていられない状況だったのだろう。


本来軍隊は規則や秩序を最も重視する組織だが、敗戦という混乱で機能不全に陥れば、そうした原則を守っていられないのもまた現実だったのだろう。