「太鼓の未来と音楽理論」〜西洋と日本の狭間で〜
ふと思ったことをここに綴っておきたい。
太鼓の曲や技術の追求について、近年感じていることがある。今、太鼓の世界では「うまさ」を測る基準として、西洋音楽理論に基づいた技術や知識が多く使われるようになってきた。
この理由の一つとして、音楽理論に則ることで技術や知識の継承がスムーズに行えるという点がある。言い換えれば、太鼓が本来持っていた“言語化しにくい感覚”を、言葉で整理し伝えられるようにするための手段として重宝されているのだ。
リズムの捉え方の違い
たとえば「リズム」について、西洋音楽理論では以下の5つのレイヤーに分けて考えられている。
- 時間の流れ(音が存在する空間)
- 数学的な要素(音符、BPM、拍子)
- 音色(音量、エンベロープ、音程)
- 演奏記号の指示(強弱記号、速度記号、発想記号)
- 感覚的要素(グルーヴ・ノリ、解釈・感情・偶然性)
一方で、日本の太鼓においては、①から始まり、最も重要視されるのが⑤の「感覚的要素」であるという点が大きな違いだ。
太鼓の音は、時間や空間、奏者の状態によって②〜④の要素が常に変化し、固定できるものではない。だからこそ、理屈ではなく「感じる」ことが重要とされてきた。
音色と空間の関係性
さらに、③の「音色」に関しても注目したい。
日本の太鼓は、空間を揺さぶるような音圧を重要視している。
その構造にも意味がある。大きな打面、音を集中させるための堅い欅の胴、衝撃に強く音響特性に優れた牛革の皮。
すべては「遠くまで音を届ける」ための設計であり、これは西洋の打楽器にはあまり見られない特徴である。
この音圧こそが、日本の太鼓が「最も響く打楽器」とも言われる所以であり、私はこれを太鼓におけるアイデンティティと捉えている。
変わっていく音楽の「聴かれ方」
では、なぜ近年になって、太鼓が西洋音楽理論へと傾倒していっているのか?
その背景には、「音楽を聴く環境の変化」があると私は考えている。
インターネットの急速な普及(1998年頃〜)により、私たちは音楽を生で聴くだけでなく、映像や音源を通じて楽しむ機会が増えた。
これが大きな転換点だった。
日本の太鼓は、現場の空間や空気感、音圧など、その場にいなければ感じられない要素に価値があった。しかし、映像や録音ではそのニュアンスが伝わらない。
そうなると、見た目や理論的な整合性、安定した再現性が求められるようになる。
そしてそれを実現するために、西洋音楽理論が活用されるようになったというわけだ。
これは日本の太鼓に限らず、多くの伝統芸能や文化に共通して起こっている現象だと思う。
多様な文化や娯楽が手軽に享受できるこの時代、「大衆に伝わる形」で発信することが求められているのだ。
可能性を狭めないために
こうして、太鼓の世界にも西洋的なアプローチが自然と取り入れられ、それを当たり前として育ってきた世代が今、第一線で戦っている。
この流れを否定するつもりはない。むしろ、それによって広がった表現や学びの幅も確かに存在する。
ただ一方で、可能性の幅が一方向に絞られてきているという点に、私は危機感を覚える。
西洋音楽理論に則った太鼓も、昔ながらの「感覚」に重きを置いた太鼓も、どちらも等しく価値のある文化だ。
今一度、太鼓の原点や、そこに宿る音の魂に目を向けることも、未来にとって大切なのではないかと思っている
