相変わらず、私の被害者の会とか、私の受験勉強法の本の被害者(の味方)と称する方からメッセージが送りつけられる

私の勉強法でうまくいっている人が多いのだから(おそらくずっとそのほうが多いだろう。被害者のミクシーなどは3ケタだそうだが、私の受験勉強法の本は最初の6冊だけで200万部売れている。副作用発現率としてはものすごい低いことを物語っている)、それがうまくいかなかった人が悪いと言うつもりはないが、被害者を名乗る以上は、私のやり方がうまくいかなかったが、ほかのやり方ならうまくいったということを示すべきではないのだろうか?

たとえば、私の受験勉強法の本で成績が下がったが、別のやり方をしたら成績が上がって、一流大学に合格した。だから、無駄になった1年を返せというような話なら、多少は、悪いことをしたかなとも言える

しかし、その後もくすぶって、私のことを恨み続けて、受験も成功できていないと言う人について、ほかのやり方ならうまくいったのかということが聞きたい

その味方の人だって、本心から、その友達を心配するなら(確かに自殺する人もいたようだが。ただし、何度も強調するように、私の読者の自殺率は一般の高校生や受験生の自殺率よりはるかに低いと推定される)、恨んで生きていくより、何か打開策を考えよう、これからの人生を考えようとするほうがはるかに親切だろう

あるやり方がうまくいかないときに別のやり方を試すべきというのが、その後、多くの著書で私が強調してきたことだ

確かに、『受験は要領』を書いた27歳のころは、そこまで読解力がない人間が読むことは想定していなかった

うまくいかない人の存在を知って、緑鐡受験指導ゼミナールも開講した

これにしたって金もうけでなく、赤字である

私のやり方でうまくいかなかったが、ほかのやり方でうまくいくような人は、おそらく私をバカにすることはあっても、被害者意識をふりかざしたりしないだろう。

こういう人になら「和田さんのやり方はダメですね」と言われても、「ごめんなさいね。あなたには合わなかったのでしょうね」と素直に謝罪できる

ずっと恨み続けている人で、成功者になれない人にだったら、精神科の医者としては、考え方を変えたほうがいいよというのが誠実だと思う

さて、前回の介護者に残酷な判決を出した裁判官だが、「今回の裁判は3人による合議の判決ですので、長門栄吉裁判長だけではなく、眞鍋美穂子裁判官、片山博仁裁判官も判決に関わっています
なぜかマスコミはどんな裁判でも裁判長の名しか報じませんが…
ちなみに長門栄吉裁判長は今年の5月末に65歳を迎えて定年退官するみたいです」(引用終わり)というメッセージをいただいた

その通りである

そして、企業の味方の判決を出したほうが弁護士を開業する際に流行るから、この手の残虐判決や脱税者に非常に甘い判決を出す裁判官が多いのは確かなようだ(そういう記事ばかりが新聞に載るのかもしれないが)

65歳の裁判長は、自分が認知症になって妻や子どもに迷惑をかけることがない、あるいは自分の妻が認知症になることをまったく想定できない能天気な人のようだが、どれだけ多くの人が介護鬱で苦しみ、介護殺人が年間50人に及ぶことは知らないのだろう

要介護者を誰かに押し付けた人は、賠償責任もなく、介護負担もなく、その上、兄弟で平等相続である(婚外子の場合、通常、父親から平等に相続を受けられることになったが、その父親の介護をすることはまずないのだから、ものすごく恵まれた身分と言える)

法律がなんでも正しいようには私は思えない(だから立法府があるのだが、それが機能していない)

さて、山中氏の昔の論文への疑義がネット上で騒がれて、それに対する釈明の記者会見が行われたようだ

昔であれば(今でも大マスコミはそうだが)、ノーベル賞学者の言うことは何でも正しいとのたまう人がほとんどだった

その勢いで、教育の業績がほとんどない人が、ノーベル賞学者というだけで教育改革国民会議の座長になって、ゆとり教育のレールを引く人がいたり、教育再生会議の座長になったりする

一国の、初等・中等教育の方向性を決める責任者が、その分野の専門家でないということはまれだそうだが、日本は、そのくらいノーベル賞学者が偉いのだ(これを批判したら、失礼だと、自著で書いた中山治ーーこの人が属人思考がいけないというのだからお笑いだがーーという人がいるが、そのくらいノーベル賞学者が不可侵なものであることもわかる)

ネットというツールができて、中傷や誹謗もある代わりに、こういう宗教の教組のようになった(本人が自覚している場合と自覚していない場合はあるだろう。山中氏なら、教育政策の座長に選ばれても専門外だと辞退してくれると信じたいが)人にでも批判できるようになった(まともな学術的な批判もあるだろう)

それに誠実に応えたのだから、立派なことだとは思う

ただ、私にはその義務があるのは思えない

そんな時間があったら、もっと研究を先に進めてほしいのだ(もう現役を退いた暇なノーベル賞学者はもちろん、応えたほうがいいが)

小保方さんの一件以来、研究に関して、結果よりプロセス重視になっている風潮が怖い

もし結果が悪かったら、たとえばiPSを実際に臨床に使ったら、ガン化がものすごく多いというような場合なら、山中氏にも道義的な責任は生じるかもしれない

しかし、結果がすばらしいもので、人類や日本の発展や幸福に寄与するなら、多少プロセスが雑でも許していいのではないか?

プロセスとか、あるべき方法論にばかりこだわるから、できの悪い大学教授が偉そうにし、自由な研究ができない日本の風土が変えられない

その方向に逆戻りしつつあるのではというのが私の不安である